名古屋城天守閣 木造で復元へ!
 
 
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 最近時、この地方で採り上げられてる記事にこんなのがあります。
戦後に復興天守として鉄筋コンクリートで再建された名古屋城も60年を経て、そろそろ補強改修が必要な時期ですが、河村市長が発起人で
『改修するんなら国産ヒノキで本物つくろみゃあ!』という動きが具体化しつつあります。
 
 実はこうした動きは名古屋に限らず、昭和30年代にボコボコ出来た復興天守はみな建替え時期に来ています。
そんな中でも小田原城はかなり本気の様です。
 
 また、2020年のオリンピックが決まった東京では、観光の目玉に『江戸城の天守を再建しよう!』という運動があります。
 
 現代でも木造で大型天守を造るとなると、莫大な費用が要り、反対の声も強いと思うので、実現の可否は判りませんが、城郭ファンとして、この三城復元についてちょっと冷静に考えてみたいと思います。
 
 
 
まず、三城の素性のおさらいです。
 
①小田原城
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 神奈川県小田原市にある小田原城は、戦国の関東の覇者:北条氏が築いて『戦国一の巨城』と言われた小田原城の一部を利用して、徳川の譜代大名:大久保氏が築いた江戸時代からの城です。
 
 平穏な時代になってからという背景もあり、その縄張りには備えの薄さが目立ち、特に北西の面は丸腰に近い、厳密に“城”とは言い難いものがあります。
大型の陣屋もしくは城風の御殿…といった方が正解かも。
 
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小田原城天守最上階から見た八幡古郭。広大だった北条氏の頃の本丸跡です。
 
 関東では唯一の復興天守というのもあり、観光客が絶えない小田原城。
『さすが!北条の城は凄い!』…という声もよく聴きますが、北条氏とはほぼ無関係です。
 
 しかし、江戸期を通じて此処に天守閣があったのは事実で、観光客の“勝手な解釈”は置いといて、小田原市は『江戸初期:大久保時代の小田原城を復元』と明解に発信しており、そのコンセプトで幾つかの櫓門も木造復元されています。
 
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天守解体破却の様子を伝える明治初年の古写真
 
 
 
②江戸城
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 江戸城はもちろん現在の皇居ですが、江戸城の本丸と二ノ丸跡の部分は『皇居東御苑』として一般に開放されています。
 江戸城は徳川幕府の本拠地で、天守は日本一の巨大なものでしたが、明暦の大火で焼失した後は天守台までは再建されたものの、建物は保科正之の主張も容れられ、遂に建てられないまま現在に至ります。
 
 
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復元3D図 右上の高さ比べでその巨大さが判ります
 
 江戸城も観光客で賑わっていて、外国人比率も高いのですが、此処の特徴は欧米人の多さです。
観光記念に名所を訪ねて写真を撮る…というより、サムライ文化を突っ込んで学んでる感じがします。
 
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二ノ丸中御門跡  
現存の大手門を入り、弐ノ門、参ノ門と続くこの辺りは、巨大な石積みの圧巻な場所です。
同心長屋も残るので、学術的には櫓門や多聞櫓など麓から順番に復元して行く方が良いかも知れません。
 
 
 
③名古屋城
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 尾張名古屋を永年“持たせている”名古屋城。
徳川御三家筆頭:尾張藩の居城です。
 明治になり、全国の城の天守が廃城破却される中、姫路城とこの名古屋城だけは政府の意思で文化財として残す事になりました。
それだけ地元の贔屓目だけでなく、万民が価値の高い天守と認めていた様です。
 その後は本丸御殿と共に“国宝一級”として維持されていましたが、第二次大戦末期の米軍の空襲で焼失してしまいました。
 
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在りし日の天守と御殿
近年、御殿の復元が始まっており、天守の復元は必然的にその延長にあるものなのかも知れませんね
 
 名古屋城も訪問客の数では負けていません。
外観復元とはいえ、熊本城と並び、極めてホンモノ感の高い天守です。
その大きさと重さを支える天守台は加藤清正の最高傑作で、江戸城天守台と比べて判る様に、圧倒的な高さを誇ります。
 城郭技術の集大成の様な、日本人なら一見すべき城なのを判ってか、たくさんの人が集まって来るんでしょうね。
 
 しかし、ハイライト部分には力を入れてるのに、外郭を中心に他の著名な城に比べて整備の手抜きを感じるのも事実です。
外堀から内側はすべて名古屋城ですから、この辺もしっかり整えて欲しいものです。
 
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外堀(空堀)周辺には手付かずの自然が残されています…。
 
 
…とまあ、それぞれ違った背景を持つ三城です。
 
 
 次に、城の経歴を見てみます。
いつ造られて、天守はどの時代に存在したのかという事実です。
即ち、在る事が妥当なのかどうか…ですね。
 
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 小田原城は地震で倒壊してもすぐ再建され、江戸期を通して天守がありました。
スペックは度外視して、小田原の人達にはなくてはならないモノでしょうね。
 
 江戸城天守は創建以来、将軍が代わる度に短期間で建替えられ、最後に焼失してからは、『不要なもの』との裁断で再建されるは事なく、370年間無い景色が続いています。
 
 そんな江戸城に対し名古屋城は、匹敵する豪壮な天守が江戸期を通して建ち続け、江戸に無いもの… として名古屋人の誇りを支えました。
『尾張名古屋は城でもつ スープは寿がき屋味でもつ』です。
 
 
 
最後に決定分析です。
 膨大なコスト(寄付&税金)を掛けて復元するには、大多数の賛同を得られる事が大前提です。 そして、文化財として価値があり、百年後の後世の人達に喜ばれる『遺産』にならなければ意味がありません。
 
 
①小田原城
 小田原の人達にとっての小田原城は特別なもので、ホンモノにしたい気持ちはとても高いのでしょうが、残念ながら小田原城に集う観光客を見てると、歴史を見に来てるとは言い難いものがあり、復興でも天守の形があればそれでほぼ満足してると思います。
(北条の八幡古郭の閑散とした状況から一目瞭然)
リピーターも少ないんでしょうね。
 
 しかし、小田原市だけでの実現はコスパから難しく、財源は国や県に支援を求める事になりますが、“城としての価値”に疑問を持つ文化庁は難色を示すでしょう。
 
 県も、独特の県民性があり、現在の生活に何の足しにもならないモノに投資は決められず、寄付も集まらないでしょう。
 万一予算が付いても逆に、用材の森林が特定されたら、そこに棲む動物や希少植物の保護を求める猛烈な反対運動が起こって、実現は難しいのでしょうね
 
 
②江戸城
 江戸城の場合はまた国家体制からのとてつもない大きな問題があります。
江戸城天守は歴史遺産的な価値は有るものの、前体制(徳川幕府)の象徴に他ならず、現体制(皇居)の地に再建すべきモノではありません。
 
 国民の意思なら天皇陛下は反対はされないでしょうが、政府が江戸城跡地を皇居と定めた時から、再建など考えてはならないもののです
それが昔から培って来た、日本人の筋目・美学だと思います。
 
 
③名古屋城
 現在進行形で本丸御殿を再建中の名古屋城は、現存の建物も多く残り、木造天守が実現すれば、将来への遺産的価値は姫路城に勝るとも劣らないと思います。
 
 産業都市:名古屋という土地柄、民間企業の強力な支援も期待でき、実現性は最も高いと思われます。
国である文化庁も、こうした可能性に集中投資してこそ、後世に素晴らしい遺産を残せるのでしょうね。
 
 ただ、名古屋市に注文したいのは、『目立つとこばっかりに見栄を張らんと、隅々までちゃんと面倒見りゃあせ!』…という事だなも。
 
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名古屋城 木造復元イメージ  果たして実現するのでしょうか…。