引き続き鳥羽城址を見て廻ります。
 
 本丸上は鳥羽小学校のグランドになって、キレイに削平されていました。
ここには本丸御殿と、グランドのほぼ中央に石垣の天守台と三層天守があった様ですが、もう跡形もありません。
 
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 その鳥羽小学校も校舎の老朽化で平成20年に移転され、廃校になっていますが、校舎の建物は昭和4年の創立当時には珍しい鉄筋コンクリート造りでアールデコ風のモダンなデザインだったので文化財として残されています。
花子さんが居るかもしれませんねw
 
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 本丸跡は海抜26mで、視界が一気に拓けます
鳥羽水族館の向こうはミキモト真珠島。 鳥羽は近年は養殖真珠で栄えた町でもあります。
 
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 スピーカー越しのお姉さんの黄色い声に惹かれて、鳥羽水族館の屋上プールでのアシカショーを望遠レンズでタダ見w
大きなトド? がエサを貰っています。
 
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城址の個別の遺構には案内板は設置されてないのですが… 
 
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 西側の山裾には“家老屋敷”の土塀が復元されています。 屋敷内は幼稚園に変わっていました。
 
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丘の北側は太鼓櫓や重臣の屋敷地だった様ですが、完全に削平されて児童公園になっていました。
 
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 麓に続く階段などには城を思わす意匠が採り入れられてますね。
 
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 相橋口門跡です。 当時は枡形門になっていて、陸地とを繋ぐ門は三か所あった様です。
 
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 船で乗り付け、武家屋敷街へ上がる際の門『唐人門』も復元されていました。主要な交通機関が船だったのですね。
 
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鳥羽城ジオラマ(海の博物館)
 しかし、さすがの水軍の城ですから、正面玄関の大手門は海に向かって造られていました。
 
 さて、鳥羽城に移ってからの嘉隆の戦績です。
 
天正15年(1587年)45歳  九州平定戦に参戦、豊臣秀長の指揮で海路から薩摩の出水を急襲する。
天正18年(1590年)48歳  小田原征伐に参戦、北条水軍の下田城を攻略した後、毛利水軍とともに相模湾を海上
                 封鎖する。
天正20年(1592年)50歳  文禄の役で朝鮮に出陣、李舜臣率いる朝鮮水軍との閑山島海戦では敗北するものの、
                 戦術を変えたその後の海戦では悉く勝利し、朝鮮水軍を殲滅した。
 
 慶長2年(1597年)55歳の時に始まった第二次朝鮮出兵(慶長の役)には出兵せず、名護屋に留まりました。
 この時の水軍としては、藤堂高虎・脇坂安治・加藤嘉明等の瀬戸内水軍が使われましたが、すでに制海権はほぼ確保してたので、最初から九鬼水軍の出番は無かったのか、新進気鋭の瀬戸内勢を志摩の嘉隆では捌き切れないと思われたのかも知れません。
 気落ちした嘉隆はこの年、家督を嫡子:守隆に譲り隠居します。

 3年後の慶長5年(1600年)、徳川家康が主導した“上杉討伐”が発動され、当主の守隆は兵を率いて出陣しました。
その隙に石田三成が挙兵し、嘉隆の元にも参陣の誘いが来ます。
当初は兵を持たぬ隠居の身のため断っていた嘉隆ですが、日々勢力を増す西軍を見て心が動きます。
西軍が勝ったら、東軍についた守隆の命は無いやろな、九鬼家の存続も危ういかも知れんでさ…。ここは西軍でも戦功を挙げておかんとな…』
真田昌幸に通じる独特の嗅覚が嘉隆にもあったのでしょうね。
 
 ほとんど留守の鳥羽城を難なく乗っ取った嘉隆は、新宮の堀内氏など西軍の兵を迎え入れ、三河沿岸を襲って兵糧を奪うと、石田三成が居た大垣城に運び入れて、軍功をアピールしておきます。
 これを知らされた家康は嘉隆の抑えに稲葉道通を派遣し、小競り合いはあったものの、睨み合いのまま関ケ原の戦いが終わってしまいます。
 
 関ケ原での敗報が伝わると、嘉隆は従ってくれた将士に残った金銀を分け与え、自らは船で答志島に渡り、蟄居します。
 戦後処理で西軍についた多くの諸将が死罪となる中、当主の守隆は家康に対して父:嘉隆の助命を嘆願しますが、元々嘉隆との仲が良くなかった家康は、なかなか首を縦に振りません。
 
 昵懇にしていた有力武将:池田輝政と福島正則に加勢してもらい、何日もかけて嘆願し、やっと助命の承諾を取り付けますが、一方で九鬼家の将来を案じた家老:豊田五郎右衛門は独自に答志島の嘉隆の元に駆け付けます。

『大殿の敵対行動は家康の勘気に触れ、若殿は苦しい対応を迫られとります。 九鬼家の将来の危機ですもんで、ここはなにとぞ…』

『…わかった。もともとどう転んでも九鬼家を残さんが為の行動やでさな、やむをえんやろな。』

 その日に自刃した嘉隆の首は、すぐに家康の元へと運ばれますが、その道中で、助命が叶った旨を報せる使者と鉢合わせして、大騒ぎになってしまいます。
 
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『九鬼嘉隆の胴塚』鳥羽市観光協会HPより借用
 
 
 守隆は父を助けられなかった事と、大大名の口添えを無にしてしまった事への詫びから、豊田五郎右衛門を鋸挽き斬首の極刑にしたと言われます。
しかし誰もが切に九鬼家の存続を願っての行動であり、守隆とて判っていた事と思います。
 
 そんな手違いがあり、九鬼嘉隆は少し早く、58歳でその生涯を閉じます。
志摩の海賊の家に生まれ、荒波の中で遊び育った暴れん坊は、ついに海賊の頂点に立つ大親分にまで登り詰めました。
その波乱に満ちた生涯は、さぞ苦しくも面白いものだったろうと思います。
 
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『九鬼嘉隆画像』
 
 
 
 最後にその後の九鬼氏について少し触れます。
 
 徳川幕府の開幕で、九鬼守隆には5万6千石が与えられ、鳥羽藩を設立します。
 守隆は水軍力を使って大坂の陣でも活躍しますが、その後の鎖国政策で、独自の海外交易につながる各藩の大船の建造と保有が禁止されます。
海賊の大親分:守隆に与えられた最後の仕事は、各藩の安宅船を集め、処分する事でした。
 
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九鬼氏のふるさと『志摩の海』
 
 守隆はその晩年、嫡子の良隆を病弱を理由に廃嫡する際、後継を五男:久隆と定めましたが、これに三男:隆季が猛烈に反発します。
その騒動が収まらない中で守隆は死去したため、騒動は幕府を巻き込んでのお家騒動に発展してしまいます。
 
 最終の幕府の裁定は、藩主は久隆が継ぐ代わりに摂津三田藩3万6千石の陣屋大名へ減転封となりました。 そして一方の隆季には丹波綾部2万石での別家の立藩(こちらも陣屋大名)が許されました。
 
 嘉隆や側近達が育て命を賭して守った九鬼の家と九鬼水軍も、平和な時代の孫の世代では、自己の欲得の為に争った挙句、九鬼水軍は分裂し、船だけでなく、城も、海さえも失ってしまいます。
 
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三田陣屋脇にある大池
九鬼氏の本質が水軍にある事に気付いて、此処に軍船を浮かべて、鍛錬していたそうですが、海辺に戻る事は遂にないまま維新を迎えました。
 
 
九鬼水軍の城  
 
 
鳥羽から高速道路に乗ると、右手に『安土城』が見えます。 …ん?
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