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鳥羽城のジオラマ(海の博物館)
 
 戦国大名と認められた九鬼嘉隆は晴れて鳥羽に進出します。
天正13年(1585年)、嘉隆43歳の時ですが、その前にそこに至るまでの嘉隆の戦いを見ておきましょう。
 
永禄12年(1569年)  27歳   織田信長配下で北畠氏の大淀城を攻め、陥落させる。信長に正式に配下として認め
                   られる。
天正 2年(1574年) 32歳   信長の長島の一向一揆鎮圧に参加、船上からの鉄砲射撃で陸上部隊を掩護し鎮圧
                   に成功。
天正 4年(1576年) 34歳       石山本願寺攻めで毛利水軍(村上)600隻に九鬼水軍300隻で決戦。 多くの船を
                   焼かれて大敗を喫する (第一次木津川口の戦い)
天正 6年(1578年)   36歳    再び毛利水軍(村上)600隻と木津川口で対戦、嘉隆は新
造の鉄甲船6隻を中心に
                   、大砲攻撃で村上水軍の船を粉砕、頂上決戦を制した(第二次木津川口の戦い)
天正10年(1582年) 40歳   織田水軍として堺に駐留し四国征伐の準備中に信長が本能寺で死去、後は織田信
                   雄に仕える。
天正12年(1584年) 42歳   信雄が秀吉と争った蟹江城合戦で、旧恩のある滝川一益に誘われ秀吉陣営に寝返
                   り、秀吉配下でも豊臣水軍の頭領となる。
 
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『第二次木津川口の戦いの図』
 
 以上が鳥羽に移るまでの戦績ですが、織田軍に欠けていた水軍力で売り込み、華々しい戦果を挙げる事で認められています。
この時期はもう織田軍の傘下に入りたい武将が目白押しの中、彼らとは違う“異能”を以て眼を引き、見事に期待に応える働きを果たした事は、嘉隆に類稀な才能が有ったからに違いないと思います。
 
 それを証明したのが毛利(村上)水軍との木津川口の戦いで、天正4年の戦いで初めて艦隊同士の大規模な海戦に臨んだ九鬼水軍は、毛利水軍の足の速い小早船と焙烙玉*の攻撃に翻弄され大敗してしまいます。

 しかし2年後の天正 6年の戦いでは超大型の安宅船に鉄板を張り付けた“鉄甲船”を6隻持ち込み、焙烙玉攻撃を無力化した上で、艦載の大砲で毛利の船を個別に打ち砕く戦術を展開し、瀬戸内の水軍を壊滅して一気に日本の水軍の頂点に登りつめます。
 
*焙烙玉とは…陶製の容器に火薬を詰め、導火線に火をつけて敵船に投げ入れて爆発させる“手榴弾”の様な
           武器で、瀬戸内の水軍の間で使われていました。
           陶器の破片での殺傷の他に、船の火災を起こさせる効果がありました。
           昔の船は防水のために多量の油脂を使っていましたから、水には強くても火には弱かったのです。
 
 
 敗戦を糧として勝てる対策を講じ、次には必ず勝つ武将こそ信長に認められる最大の要素ですから、嘉隆がいかに将の器であるかを見定める絶好の事例になったのだと思います。
 
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九鬼水軍の旗艦 日本丸の模型(海の博物館)
 
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九鬼嘉隆人形(海の博物館)
和製ジャック・スパロウは意外と気の良いオジサン風でした
 
 
 
 
鳥羽城を歩く
 
 鳥羽城址は現在では『城址公園』となって保存されています。
場所は… R42を挟んで鳥羽水族館の反対側 というのが一番判りやすいと思います。

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 電車だと近鉄鳥羽線の鳥羽駅の南の『中之郷』が最寄駅になりますが、鳥羽駅から歩いても僅かな距離です。
 クルマだと、城址の西側の鳥羽市役所の駐車場を利用する事になりますが、今回は東側の線路脇の三の丸広場の駐車場(2台分)が空いてたので、そこに停めました。
 
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海辺の小高い丘が城址です
 
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三之丸広場にクルマを停めて登城します
 
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三之丸虎口は復元と創作が入り混じった感じ。 左三つ巴紋の帆布が雰囲気を出しています。
 
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途中に古絵図看板がありました。 三ノ丸の下に二ノ丸がある面白い配置です
 
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この段々の石垣は絵図にないから、創作っぽいですね
 
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ここまで登ると位置関係が良くわかりますね
城址のすぐ横を線路と国道が走り、二ノ丸跡には鳥羽水族館が建っています
 
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北方面は鳥羽港と遠くに嘉隆終焉地:答志島が見えます
 
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道を登り切ると、本丸の石垣が現れます。 これは本物だ!
 
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石垣に沿って西側に廻って見ましたが、本丸石垣はよく保存されてる様ですね
 
 
九鬼水軍の城 Ⅲ 鳥羽城≪後篇≫ につづく