志摩九鬼氏が波切城を拠点にしていた頃の志摩国は、神宮領、寺領から力を付けた地侍達が地頭として割拠する状態で、志摩十三人衆と呼ばれ、国司北畠氏の管理下にありました。
もちろん九鬼氏もそのうちの一人なのですが、いちばん精強だったのも九鬼氏でした。
もちろん九鬼氏もそのうちの一人なのですが、いちばん精強だったのも九鬼氏でした。

四代:泰隆の頃の天文年間(1532年~1555年)、神宮神官との間で争いが起こり、北畠氏の支援を受けた泰隆はこれを破り、新たに加茂五郷を与えられます。
泰隆は加茂に新城の田城(たじょう)城を築き、支配拠点として移り、波切城は子の浄隆が継ぎます。
泰隆は加茂に新城の田城(たじょう)城を築き、支配拠点として移り、波切城は子の浄隆が継ぎます。
暫くして、波切の浄隆の元に鵜方の百姓から依頼が持ち込まれ、地頭の居ない鵜方七郷の治安を守る為、地頭を兼務して欲しいとの要望でした。

志摩国の地頭とその居城
13人の地頭による分割統治で安定して居ましたが、九鬼氏の力は図抜けており、嘉隆の登場で均衡は一気に崩れます
浄隆は実弟で、紀州九鬼浦の宗家に居た嘉隆を呼び寄せ、これに宛てます。
ここで初めて九鬼嘉隆が登場して来ますが、まもなく田城の泰隆が死去した為、浄隆は田城城へ移って波切城は併せて嘉隆が受け継ぎ入ります。
九鬼嘉隆という人物はかなりの乱暴者だった様で、波切城に入ると水軍の武力を背景に周囲の地頭を圧迫し始めます。
それは当主:浄隆でも庇い切れない程あからさまなもので、それまで盟約を以て同盟を結び、平穏を保っていた十三人衆の中で九鬼氏は孤立してしまいます。
それは当主:浄隆でも庇い切れない程あからさまなもので、それまで盟約を以て同盟を結び、平穏を保っていた十三人衆の中で九鬼氏は孤立してしまいます。

内陸の田園地帯にある田城城址
水軍勢力にとって穀倉地帯の確保は鬼に金棒で、軍船建造などの整備が一気に進んだ事でしょう
こうした事態に宗主の北畠氏も動き、その支援のもと地頭七人が連合して田城城を襲います。
この時は敵も少数で浄隆が応戦して追い払い、事なきを得ましたが、間もなく浄隆が急死してしまい、当主の座を若い澄隆が継ぐと、再び襲い掛かって来ました。
この時は敵も少数で浄隆が応戦して追い払い、事なきを得ましたが、間もなく浄隆が急死してしまい、当主の座を若い澄隆が継ぐと、再び襲い掛かって来ました。
この戦いには原因を作った当事者の嘉隆も駆け付けて来て、激戦になりますが、陸戦ではその力を存分に発揮できず、敗れて伊勢の朝熊山に落ち延びます。
進退窮まってしまった九鬼氏一族郎党でしたが、ここは嘉隆の機転で海路で安濃津に渡り、そこに進軍して来ていた織田軍の滝川一益を頼ります。
進退窮まってしまった九鬼氏一族郎党でしたが、ここは嘉隆の機転で海路で安濃津に渡り、そこに進軍して来ていた織田軍の滝川一益を頼ります。

滝川一益
九鬼とやら、よう来てくれただなも。
織田にはてぇやぁした水軍はおらんだで、ここはしっかり気張ってちょう!
ちょうど織田信長の伊勢侵攻は北畠氏との対戦局面を迎えており、九鬼氏は滝川一益傘下で一翼を担う事になります。
嘉隆にこうした世情の情報収集力と将来を見通す判断力が有ったから、九鬼氏は生き残れた訳です。
ただの乱暴者の海賊の親玉では無かった様ですね。
嘉隆にこうした世情の情報収集力と将来を見通す判断力が有ったから、九鬼氏は生き残れた訳です。
ただの乱暴者の海賊の親玉では無かった様ですね。
織田軍の後ろ盾を得た九鬼氏は、本軍が北畠氏の最後の拠点:大河内城を攻めている最中、織田水軍として志摩を襲います。
宗主:北畠氏の末路を見た十三人衆の多くは戦わずして降伏の道を選びますが、小浜氏、千賀氏、浦氏などは戦って滅亡しています。
宗主:北畠氏の末路を見た十三人衆の多くは戦わずして降伏の道を選びますが、小浜氏、千賀氏、浦氏などは戦って滅亡しています。
この戦いはすべて九鬼嘉隆が指揮したもので、本拠の田場城も奪還した嘉隆は、此処に甥であり当主の澄隆を復帰させ、九鬼氏による志摩国の支配体制を確立しました。

織田信長
ええだか嘉隆、なんにも使えん木偶の惣領などに意味はにゃあ。 いっぺんよう考えてみりゃあせ。
その後の織田信長の合戦に水軍として参加し、多くの戦果を挙げた嘉隆は、信長から晴れて志摩一国の支配権が認められます。
ここで何が話し合われたのか、想像の域を出ませんが、志摩に戻った嘉隆は突如鳥羽の橘氏に命じて、田城城の澄隆を襲わせ、殺いてしまいます。
ここで何が話し合われたのか、想像の域を出ませんが、志摩に戻った嘉隆は突如鳥羽の橘氏に命じて、田城城の澄隆を襲わせ、殺いてしまいます。
九鬼家当主の座を得た嘉隆は、田城城には入らず廃城とし、橘氏の居館跡に鳥羽城を築き、新たな支配拠点としました。
嘉隆は家督は奪ったものの、その後は九鬼氏の家紋:七曜は使用せず、左三つ巴の紋に変更しています。
嘉隆は家督は奪ったものの、その後は九鬼氏の家紋:七曜は使用せず、左三つ巴の紋に変更しています。
さすがに、それまで自分を引き立ててくれた兄の子、しかも惣領の澄隆を殺してしまった事に呵責があったのでしょうね。
また嘉隆の子の守隆の意志で、田城跡には澄隆の怨霊を鎮める『九鬼惣領権現』が建てられています。
また嘉隆の子の守隆の意志で、田城跡には澄隆の怨霊を鎮める『九鬼惣領権現』が建てられています。
田城城を歩く
読みは“たじょうじょう”です。 田城城は波切城から20kmあまり北上した鳥羽市岩倉町にあります。
鳥羽湾に注ぐ加茂川沿いの5kmほど内陸部になり、海賊にはおよそ縁の無さそうな立地ですね。
鳥羽湾に注ぐ加茂川沿いの5kmほど内陸部になり、海賊にはおよそ縁の無さそうな立地ですね。

城址の正面
近付いて見ると、細長い“馬の背”状の遺構なのが判ります。
なんでも、近世に土砂を採取する為に削られて、当時の姿は失われてしまっているんだそうです…。
予め“田城城には駐車場が無い”という極秘情報を得ていたので、緻密な作戦を立ててから向かいます。
地図をよく見ると、R167を挟んだ城址の向かいに農協のストアが有り、駐車場もあるので、ここのお客さんになって買い物し、堂々と駐車して、買い物ついでに神社にもお参りする…という完璧な作戦ですw
地図をよく見ると、R167を挟んだ城址の向かいに農協のストアが有り、駐車場もあるので、ここのお客さんになって買い物し、堂々と駐車して、買い物ついでに神社にもお参りする…という完璧な作戦ですw
しかし、いざ農協ストアに着いて見ると、日曜日のため休業の様で閉まっています。
でも駐車場は開放されてて、クルマは一台も停まっていません。
少しの時間なら邪魔にもなりそうにないので、停めさせて貰い、自販機で飲料を買いました。一件落着。
でも駐車場は開放されてて、クルマは一台も停まっていません。
少しの時間なら邪魔にもなりそうにないので、停めさせて貰い、自販機で飲料を買いました。一件落着。

入り口にある説明看板
横断歩道で国道を渡り、神社の石段を登って行きます。
事前に田城城の謂れを調べていたせいだと思いますが、石段の中腹あたりから何か重い空気がズンッと圧し掛かって来る気がします。
事前に田城城の謂れを調べていたせいだと思いますが、石段の中腹あたりから何か重い空気がズンッと圧し掛かって来る気がします。

参道の石段から上を見上げると…何かヤバイ雰囲気です

登り詰めると細長い参道になり、奥に社殿が見えます。何かしらもの悲しい感じですね。

土塁形状の土盛りがありますが、縄張りが推測できません。

社殿もそう立派なものではありませんが、手入れはされてる様です
やっぱり地元にとっては氏神様なんでしょうか?

北側にはスロープの参道もありました
終始息苦しい感じがして、あまり好奇心をそそられる事もなく、早々に降りて来ました
九鬼嘉隆という人物の人物像をまだ詳しくは知らないのですが、戦国大名と言われる武将の殆どが通った道で、全国津々浦々がそんな時代だったのでしょうね。
戦国時代の過酷さを志摩の地でも見た思いで城址を後にしました。
戦国時代の過酷さを志摩の地でも見た思いで城址を後にしました。
九鬼水軍の城 Ⅲ 鳥羽城≪前篇≫ につづく