勝頼は愚将だったのか?
 
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♪風林火山のぉ~ 旗のもと ぉお家再興ぉ~ その日までぇ~ 男の子ならなくまいぞ あぁ神州ぅ~天馬峡ぉ~♪
 
もの心がついた頃、楽しみに見ていたTVドラマ『神州天馬峡』です。
 
 武田勝頼が天目山で自害する直前、一子“伊那丸”に御旗・楯無を持たせて逃がす所から始まるこのドラマ、京に逃れた伊那丸が武田旧臣に助けられながら成長して行く波乱のストーリーでした。
 
 そんな事もあり、武田勝頼という武将は私の中で義経の次くらいにインプットされていた、謂わば贔屓の武将でした。
しかし、歳を重ねて、歴史を深く読み込むにつれ、なんだかあやしい雰囲気になって行きます。
自分のヒーローの偶像の崩壊を見たくない一心からか、いつしか勝頼の評価は敢えて避ける様になっていましたが、今回半世紀を経て、客観的に向き合ってみようと思います。(かなり大袈裟w)
 

 
 昼過ぎに設楽ヶ原を脱出した武田勝頼の本隊ですが、3日の後には無事に高遠城まで引揚げます。
そこに危急を聞いた海津城主の高坂弾正昌信が駆け付けて来ます。
 昌信は武田四天王の残るひとりで、今回の長篠には参戦せず、川中島で上杉勢と対峙していましたが、砥石崩れ以来の惨敗と聞き、織田勢の追撃があるやも知れぬ…と、上杉と*和睦して手勢1万を引連れて駆け付けました。
*たぶん昌信は武田家の危急を正直に謙信に伝えたのだと思いますが、それで和睦に応じた上杉謙信は凄いです!
 
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撤退後に集結した高遠城
 高遠城は武田信廉(叔父)が城主の城でしたが、高遠は勝頼の地盤でもあり、行動に不安を感じた勝頼は弟の仁科盛信に交替させます
 
 
 同僚の宿老三名を始め、主立った譜代・外様の死を知って目眩がする思いだったでしょうが、退却戦の無様な様子を知るに連れ、激怒します。
 退き陣を指揮させたら並ぶ者が無いほど見事な為、“逃げ弾正”と呼ばれた昌信には、『一体何とすれば、こんな無様な負け方ができるのか…自分さえ居たなら…』と、悔やんでも悔やみ切れない思いだったのでしょうね。
 その原因となった穴山信君・武田信豊・武田信廉らの敵前逃亡を厳しく非難し、切腹を要求しますが、自らも茫然自失の勝頼が親類衆の重鎮を裁く事はありませんでした。
 
 ともかく、武田家の再建の難しさと自分への役割の重さを感じた昌信は、勝頼主従の装備を新しいものに替えさせ、隊列を整え、自らも護衛して整然と躑躅ヶ崎へと凱旋させました。
『武田の家に生まれるだけの親類衆なら、何人でも作れるが、武田を守り本当に信頼できる優れた家臣を育てる事がいかほど難儀な事か…』
 帰路の昌信の気持ちは暗澹たるものだったでしょうが、昌信に残された時間もそう長いものではありませんでした。
 
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『大河ドラマ天地人より』
晩年の高坂昌信を演じた大出俊さん。 
ひとり取り残された苦悩を見事に演じてましたね。
 
 
 『設楽ヶ原の戦い』の武田方の戦死者についても諸説あり、千人から一万人までさまざまですが、参加人数1万2千を肯定して試算すると、前線で戦った譜代・外様衆の半分の3千人あたりが良い数字と思います。
 本隊や親類衆の部隊が無傷で撤退した割には多過ぎると思うかも知れませんが、上野安中氏の資料によると、真田信綱の与力として300の兵で出陣した安中景繁の部隊は、戦後待てど暮らせど誰ひとりとして帰っては来ませんでした。 推して然るべきです。
 

 
 さて、主題の勝頼の将の器に対する考察です。
 
 これまで書いて来た様に、武田家中は必ずしも一枚岩ではありませんでした。
 
 信玄の実子で、信玄が指名した後継者とはいえ、だまし討ちで滅ぼした諏訪家の血をひき、幼少期を共にしてない勝頼への親類衆の反発は根強く、穴山信君を中心に親類衆で徒党を組んでた節があります。
これは勝頼の問題ではなく、信玄の根回しが不足していたと言わざるを得ません。
 
 これに対し勝頼は、相当に居心地の悪い思いをしながらも、信玄に指名された事に責任と自負を持ち、譜代の若手を中心に側近を置き、自分の意志の通じる中央集権組織づくりを始めます。
 何も決定権を持てない当主であってはならない焦りがあったと思いますが、なんとなく判る気がします。
しかし、軍事の采配は経験値がモノを言う世界なので、戦働きが中途半端な側近で采配したとなれば決定的なミスですね。
 
 そして経験値の高い宿老の扱いですが、信玄に育てられ、信玄を支えた功将にはそれなりに自負があります。
豊富な実戦経験からの提案や諫言は結局は自分に利する事が殆どで、信玄はよく聴いていたのですが、勝頼にそれを求めるにはまだまだ年輪が足りません。
口喧しくそんな事を教える傅役に恵まれなかったのも、勝頼の大きなハンデですね。
 
 最後に外様の扱いです。
信玄は外様の子息を幼少から傍に置き、その人となりを掌握する傍ら、武将としての育成を欠かしませんでした。
20年30年先を見据えた家臣団の長期育成計画なのですが、生まれつきの若殿の勝頼には“家臣あっての家”というのが理解できません。
消耗品扱いに外様の心は徐々に離れて行っていたと思います。
 

 

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甲斐新府城址にズラリ並ぶ墓標
その後の所領運営に苦しむ中で、家臣の重要さを思い知らされた事でしょう
 
 
 総括です。
下の表は信玄と勝頼の年齢別の合戦履歴をまとめたものです。
 
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 一概にこれだけで優劣は語れませんが、勝頼が長篠で負けた同年齢のとき、信玄は村上義清に完膚なきまでに叩かれています。
真田幸隆の活躍で義清を克服し、そして始まる上杉謙信との長~い血戦。
 信玄がここで大きく成長した事を思えば、勝頼の戦績も遜色なく見えますし、これからの武将という評価もあるでしょう。

 しかし決定的に違うのが家中の統制です。
誰であれ大きく勢力を延ばした戦国大名には内部に抵抗勢力があり、それを冷淡に切り捨てる事で統制しています。
頼朝の義経、尊氏の直義、信長の信勝、政宗の小次郎…例を挙げればきりがありませんね。
 勝頼にそんな家康や信長、秀吉に感じる“人間を超えた恐ろしい執念”の様なものを感じないのは確かです。
 
 偉大な先代の後継という意味では上杉景勝と通じるものがありますが、相対的には頑張ろうとした感はあるものの、凡将の域を出ない5点武将ですね。
 
 

 
最後にまた真田昌幸の動向です。
 
 昌幸は勝頼の旗本隊の一部で、15騎70人あまりを率いて出陣したと思います。
 長篠城攻囲の陣立てでは兄達との陣所も近く、互いに情報交換をしてたでしょうが、昌幸とて側近の立場ではなく、戦略の詳細は判りません。
 
 信長が大軍で出て来たとの情報には、『当然退くか、奥三河山中までおびき寄せての決戦』をイメージしたと思いますが、中途半端な対陣の指示に不安が広がり、敵陣の様子を見て愕然とします。
『こ、これは危険だ…』
戦いが始まれば大きな被害が出る事を直感しますが、討って出ない限り戦いにはなりそうになく、夜間の密かな撤退も可能ではありました。
そして、予期せぬ翌朝の奇襲で戦いは始まってしまいました。
 
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真田昌幸画像 長篠の頃のイメージと推察します
 
 甲斐に戻った昌幸には休む間もなく、真田家の継承が命ぜられます。
暇乞いをする武藤家の事、死んだ兄達の家族の事、犠牲になった家臣達の事、今後の真田家を率いる重さ、そして武田家の現状の課題の数々…。
一度に多くの事を抱えさせられ、昌幸は気の遠くなる思いだった事でしょうね。
 
長篠の戦い