もうひとつの真田 真田信綱
 
 
 『真田家』といえば、幸隆→昌幸→信之の三代を語る事が一般的ですね。
 *戦国無双世代や講談を史実と思ってる人は信之より幸村ですが…
事実、この系統で真田家が戦国を生き抜き、現在に至っている訳ですから、当然です。
 ではこれが正統な真田の嫡流だったかと言えばそうではなく、昌幸は“長篠の戦い”で二人の兄を亡くし、養家から戻って真田の家を継いでいる、いわば変数です。
 戦国の世にはよくある話ですが、真田家に興味を持って調べて行くと、もし昌幸が継がなかったなら、どんな真田家になっていたんだろうか?…などとふと考えたりします。
 
 今回取り上げる『真田信綱』は設楽ヶ原で討死したものの、前年に他界した幸隆に代わり当主を継いでいた嫡男でした。
あまり知名度は高くないと思うので、出自から紹介しましょう。
 
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真田信綱画像
従来の智謀の真田家のイメージとは違う、武田で一二を争う剛雄の武将だった様です
 
 信綱が生まれたのは天文6年(1537年)で幼名は源太と言いました。
天文10年(1541年)の海野平合戦の時にはもう4歳ですから、父と共に箕輪の長野業正の元に身を寄せていた事になります。
 幸隆が武田晴信に仕官したのは天文14年の頃で、佐久平の岩尾城の城代を務めていますから、たぶん8歳の信綱は府中の躑躅ヶ崎に人質として留め置かれ、信玄の小姓見習いをていたのだろうと思います。
ちょうどこの頃に同母弟の昌幸が生まれ、三年前には昌輝が生まれています。
 
 信綱の初陣は天文21年(1552年)信濃安曇郡の小岩岳城攻めで、15歳の時でしたが、人並み外れて身体が大きく、力も強かった信綱は一番槍の功を挙げ、武田家中の注目を浴びています。
 
 この頃にはもう弟の昌輝が信玄に出仕しており、以後は父:幸隆に付いて武田の戦いに従軍して行った様です。
 永禄3年(1560年)、上野白井城を攻略した際にも、親子で攻めました。
永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでも父・幸隆と共に妻女山攻撃の別働隊にその名が見えます。
 
 この様に、信玄の元で戦術を習得した昌幸と違い、信綱は父:幸隆から直接薫陶を受け、真田の後継者としての道を歩みました。
 永禄6年(1563年)の岩櫃城攻略の頃から幸隆は上野吾妻郡の攻略に専念し、本領の真田郷はもう信綱が支配を任されていたと思われます。
 この後、幸隆は戦場での記録が無くなるので、西上野に侵攻していた永禄10年(1567年)頃までには、正式に家督の相続が行なわれていたと考えられます。
 
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戦いのイロハを教わりながら、父子で落したという上野白井城
攻め弾正と呼ばれた名将:真田幸隆の軍略を受け継いだのは信綱でした
 
 真田家当主となった信綱は、信濃衆筆頭に位置付けられ、弟の昌輝を副将にして、北条との駿河攻め、三増峠、徳川との西上作戦を戦います。
 信綱の戦い方はとにかく猪突猛進型で、長尺の陣太刀を振り回して、先頭に立って突っ込んで行く、北条綱成タイプの剛勇の猛将だったと言われています。 
 昌幸を基準に想う真田の智謀の戦い方とはかなり違いますが、残された陣羽織から相当に巨体の持ち主だった様で、昌幸の長男:信之も遺品から180cm以上あったと推定されているので、これもまた真田の血なのです。
 
 信玄はそんな信綱を好んで使い、いつも先陣を言い付け、その将来に大いに期待したそうです。
 信玄と幸隆が世を去り、勝頼との関係がどうだったのかは不明ですが、信玄の指揮のもと戦場の前線で共に戦った譜代の宿老達とは絆を持っていた様で、それが設楽ヶ原での最後の行動に繋がります。
 
 先に弟の昌輝が落命し、真田の家の事も心配だったでしょうが、旗本隊の昌幸が勝頼を守り退却して行く姿を見て、残る決意をしたのでしょう。
『昌幸、真田を頼んだぞ!』… そんな叫びが聞こえて来そうです。
 
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設楽ヶ原の浅谷に建つ真田信綱・昌輝兄弟の碑
 
 
 さて冒頭の、設楽ヶ原で信綱が生き残っていたら…の仮定の話です。
 
 信濃衆を束ねる信綱ですから、主要な譜代家臣が亡き後、勝頼にも実績ある宿老として頼られるでしょう。
高坂昌信と結んで、穴山信君らを処罰する事ができたかも知れません。
 本領の位置から、内藤昌豊が務めていた上野の統括も後任は信綱を置いて居ないと思われます。
 
 つまり、昌幸が相続の後、時間を掛けて築いた勢力以上のものが一瞬で無条件に手に入る訳ですから、北条氏邦との戦いも優勢に進められて、上野全体を掌握できた可能性が大いに有ると思います。
 関東甲信の勢力図が大きく変わる訳で、戦国時代の一人のキーマンとして歴史を左右したかも知れませんね。
 
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真田郷内小屋にある信綱の菩提寺:信綱寺
敬愛する長兄を弔うため、かつての館跡に昌幸が建立しました
 
 
 話を史実に戻して、信綱の遺児達ですが、信興、信光の二男と一女がありましたが、まだ幼年だった為、即戦力を欲した勝頼は昌幸を後継に指名します。
 信綱の子達は親族でも家臣としても、その後に名前が出てきません。
唯一、女子は信之の妻になったと言われますが、政略で徳川の姫を迎えるにあたり、側室に格下げされています。
 一度は信綱でまとまった真田家ですから、昌幸が再構築する際には邪魔者以外の何物でも無かったのでしょうね。
この辺りがドラマや小説では決して描かれない、戦国時代の残酷さ厳しさです。
 
 
 
『勝頼は愚将だったのか?』につづく