設楽が原の戦い≪後篇≫
山県昌景隊が壊滅した左翼の戦いは、代わって原昌胤隊が受け持ちます。
昌胤は力押しの攻めはせず、戦いは小康状態となりました。
昌胤は力押しの攻めはせず、戦いは小康状態となりました。

武田の中軍を指揮した内藤昌豊の陣所跡に建つ設楽ヶ原歴史資料館
中軍では混戦が続いていましたが、依然として柵内には攻め込むに至っていませんでした。
ここで内藤昌豊は一計を立て、徳川の鳥居元忠隊に集中して一点攻撃し、見事に三重の柵を突破する部隊が出て来ました。
この見事な攻撃には周りの徳川勢も感心する程でしたが、ここは本多忠勝隊が回り込んでカバーし、事なきを得ました。
ここで内藤昌豊は一計を立て、徳川の鳥居元忠隊に集中して一点攻撃し、見事に三重の柵を突破する部隊が出て来ました。
この見事な攻撃には周りの徳川勢も感心する程でしたが、ここは本多忠勝隊が回り込んでカバーし、事なきを得ました。
柵を突破した右翼の攻防は一進一退でしたが、中備え後ろ備えの部隊が続々出て来る織田軍に、馬場、真田隊の奮闘も限界になりつつありました。

前線の部隊の攻撃もいっぱいいっぱいになった時、後詰めをすべき穴山信君隊は独断で戦線を離脱し退却を始めます
このタイミングで右翼の後方に布陣して、まだ戦闘に参加していない穴山信君が動きます。
馬場隊に後詰めして、織田勢を押し戻す算段かと思いきや、陣をたたんで勝手に三州街道方面に北上を始めました。
馬場隊に後詰めして、織田勢を押し戻す算段かと思いきや、陣をたたんで勝手に三州街道方面に北上を始めました。
武田親類衆筆頭で、副将ともいえる信君のこの行動には、両軍も勝頼も唖然とするしかありませんでしたが、勝利の予兆を確信した織田・徳川軍はがぜん活気付きます。

穴山信君画像
勝頼に対し批判的だった信君の真意は、諏訪家の血を受け継ぐ勝頼の子:信勝より、信虎の妹を母に持ち、信玄の妹を妻に持つ自分の子:勝千代こそ武田の当主に相応しいと考えていたと言われます。
信玄の決めた後継に、その死後に不服を持つなど、武将にあるまじき事ですが、武田家を割れない当主の勝頼は処分を控えます。 そして今回の背徳行為です。
武田家の滅亡を前にしても信君は早々に織田家へ寝返り、それは信長に認められ、晴れて武田家を継承するかに見えました。
しかし、お礼言上に安土城を訪ねた信君は本能寺の変に巻き込まれ、土民に襲われて最期を遂げます。
それなりの行ないに対するそれなりの結末でした。
武田軍の諸将と本陣では伝令が飛び交い、撤退戦への切り替えが決まります。
前線の諸将は当初の陣場まで徐々に退いて、高所で織田・徳川軍をくい止める、その間に勝頼と親類衆から速やかに撤退して行くというものでしたが、今まで前線で奮闘していた部隊がそのまま殿軍をも務めるという、過酷なものです。
しかし、当事者の馬場信春、内藤昌豊には、今となっては自分達しかやる者が居ないのは判っており、腹を決めたのでしょうね。
この両名に原昌胤、小幡信貞、真田信綱が加わって、勝頼を逃がす捨て石作戦が始まりました。
前線の諸将は当初の陣場まで徐々に退いて、高所で織田・徳川軍をくい止める、その間に勝頼と親類衆から速やかに撤退して行くというものでしたが、今まで前線で奮闘していた部隊がそのまま殿軍をも務めるという、過酷なものです。
しかし、当事者の馬場信春、内藤昌豊には、今となっては自分達しかやる者が居ないのは判っており、腹を決めたのでしょうね。
この両名に原昌胤、小幡信貞、真田信綱が加わって、勝頼を逃がす捨て石作戦が始まりました。

退きの法螺貝が鳴り響き、勝頼の旗が北へ動き出すと、織田・徳川の陣では大きな歓声に包まれます。
戦の勝利と、カサに掛かった追撃戦の始まりの合図です。
戦の勝利と、カサに掛かった追撃戦の始まりの合図です。
合戦では、逃げる相手を追って討つのが最も簡単に戦功を挙げやすい場面であり、若い将士や雑兵に至るまで、大将首を狙って武田軍に殺到します。
右翼の徳川の部隊を引き受けていた原昌胤は、竹廣の高台で必死に防戦していましたが、親類衆の撤退は遅々として進まず、厳しい戦いを強いられます。
最後の小山田隊が陣を離れたのを見届けた時にはもう部下の兵は数えるほどになっており、間もなく討死にしました。
最後の小山田隊が陣を離れたのを見届けた時にはもう部下の兵は数えるほどになっており、間もなく討死にしました。
中軍の内藤昌豊は八束穂の台地で防戦していましたが、雲霞の様な織田・徳川軍の襲来に遂に力尽き、この場で討死してしまいます。

内藤昌豊陣所から見る設楽ヶ原の戦場
戦後に戻って来た住民は、武田軍の遺体を此処に運んで埋葬し、懇ろに弔ったそうです。
右翼では、馬場信春が防戦していましたが、左翼の崩壊した様子を見て、最後に撤退する小幡隊の後ろについて後退し、防戦しながら前軍の撤退する時間を稼ぐ作戦に切り替えます。
しかし、こちらも織田軍の追撃は激しくなる一方で、組織立った後退は出来そうにありません。
ここに割って入ったのが真田昌幸の兄の真田信綱隊で、すでに小勢ながら決死の覚悟で立ちはだかり、馬場隊の移動を助けますが、信綱も間もなく力尽きてしまいます。
しかし、こちらも織田軍の追撃は激しくなる一方で、組織立った後退は出来そうにありません。
ここに割って入ったのが真田昌幸の兄の真田信綱隊で、すでに小勢ながら決死の覚悟で立ちはだかり、馬場隊の移動を助けますが、信綱も間もなく力尽きてしまいます。
一方、信州へと続く三州街道の状況は、勝頼が豊川沿いの出沢に着く頃には、長篠城方面から撤退する将兵で溢れ返っていました。
旗本100名ほどに守られて先を急ぐ勝頼ですが、全軍の撤収は牛歩の如しです。
その行列の先頭には、いち早く設楽ヶ原の戦場を放棄離脱し、悠然と撤退する穴山信君の姿がありました。
旗本100名ほどに守られて先を急ぐ勝頼ですが、全軍の撤収は牛歩の如しです。
その行列の先頭には、いち早く設楽ヶ原の戦場を放棄離脱し、悠然と撤退する穴山信君の姿がありました。

主家の当主を助ける為、自ら捨石となる事を選んだ武田諸将の墓石
こうした行為を顕彰(奨励)したい後の徳川幕府の手によって終焉の地にそれぞれの墓石が建てられました。
左から、土屋昌次、原昌胤、内藤昌豊、馬場信春
やっと豊川沿いの出沢に辿り着いた馬場信春は、地形が狭隘になるこの地を死に場所と決め、最期の戦いをします。
しかし半刻も持たず討死にしてしまう訳ですが、ここで時間を稼いだお陰で大半の将兵は先へと逃げており、織田信長と徳川家康はこの後の深追いを禁じた為、長篠の戦いは連合軍の一方的勝利で終結となりました。
しかし半刻も持たず討死にしてしまう訳ですが、ここで時間を稼いだお陰で大半の将兵は先へと逃げており、織田信長と徳川家康はこの後の深追いを禁じた為、長篠の戦いは連合軍の一方的勝利で終結となりました。

武田四将水盃の夜を伝える展示
勝てない戦いに敢えて向かう判断をした勝頼に、宿老の四将はここを死に場所と決め、水盃を交わして戦場に向かったそうです。しかし彼らも戦いのプロです、不利は承知でも勝つ為に戦場に向かったのではないでしょうか。
『もうひとつの真田 真田信綱』 につづく