『徳川が受け継いだ赤備え 山県昌景』
 
武田軍といえば騎馬隊。

イメージ 1
 
大河ドラマ『風林火山』と『武田信玄』のタイトルバックの画像を引用しますが、草原や林間を疾駆する騎馬軍団の姿が武田軍のイメージですね。
 
 その中でも、甲冑も旗指物も馬具さえも赤一色の『赤備え』の集団が登場する事が多いと思います。
 
 その赤い軍団こそが、武田一、いや戦国一の強さを誇った山県昌景隊なのです。
言わば武田の強さの象徴だったんですね。
 
イメージ 2
 
 武田の赤備えといえば元来、家老で信玄の嫡男:義信の傅役だった飯富虎昌隊のものでした。
しかし、虎昌は謀反を企てたとして自害させられ、飯富家の家督と赤備え軍団は弟の源四郎が継ぎます。
 
 信玄の側近だった源四郎には“謀反の家飯富”に代わり、甲斐の名族:山県の名跡が与えられ、名も昌景と改め、“山県昌景”を名乗ります。
 
イメージ 3
 
 “赤備え”は何も山県の専売特許ではなく、赤い部隊は戦場で勝っても負けても目立つ事から、自分を縛る意味で使う武将は何人も居ました。
 後北条氏の赤組:北条綱高や丹波の赤鬼:赤井直正などが代表例で、武田家中でも外様ながら上野小幡の小幡信貞の赤備えは有名です。
 
 山県昌景は自身の赤備えを率いて、騎馬隊・槍隊・徒歩武者隊をスピーディーに連携させる戦術を編み出します。

イメージ 4
 
まず密集した騎馬で敵陣を駆け抜けて踏み潰し、敵陣を撹乱します。
馬に体当たりされたら堪らないので陣形は大いに乱れ、そこに長槍の穂先を揃えた足軽隊が突っ込んで来ます。
負傷者が出てズタズタになった所へ短槍や太刀を持った武者が現れトドメを刺す…といった具合ですね。
 
 昌景はこうした“突撃”を川中島、三増峠、三方が原などで多用して絶大な戦果を挙げました。

イメージ 5 
 
 その圧倒的な強さから、いつしか昌景の赤備えは武田の強さの象徴として、諸大名から恐れられる様になったのです。
設楽ヶ原でこれと対決する事になった織田信長と徳川家康は、武田騎馬隊の強さをしっかり検証して、十分な対策を持って戦いに臨みます。

イメージ 6
 
 つまり、騎馬隊の動きにくい立地条件を選んで先に布陣し、鉄砲という新兵器を最大活用して、白兵戦にならないうちに勝負を決める…という戦術ですね。
 
 当時の武士にとって、こんな戦い方は“臆病な卑怯者の所業”に他なりません。
武士の戦いとは日頃鍛えた武術の正々堂々のぶつかり合いであり、だからこそ生命のやり取りにも名誉と美学がありました。

イメージ 7 
 
 幾多の戦場を駆け抜けた一騎当千の荒武者が、日頃は鍬を持つ農夫の放った一発の弾丸で簡単に斃されてしまう事は武士の尊厳の否定であり、あってはならない事だったのです。
武田氏の様に由緒正しい名族なら、それは尚更な事ですが、
 
時代の破壊者:織田信長にそんな観念はありません。
昌景にとっては、常識を遥かに超えた光景の中で終わってしまった47年の生涯でした。
 
イメージ 10
山県昌景陣所跡から竹広激戦地と徳川方陣跡を望む
馬上で多数の銃弾を浴び、腕が利かなくなった昌景は、それでも口に軍配を咥えて采配を揮い続けたそうです。
 
イメージ 8
陣所跡にある昌景の墓と慰霊碑
戦国武将マニアに絶大な人気を誇る昌景の墓にはお供えが絶えないそうです(酒ばっかり!?)
 
 
 昌景の討ち死にの報に、歎き哀しんだ意外な人物が居ます。
誰あろう徳川家康がその人で、三方が原以来、昌景に一目置いていた家康は、『誠に惜しいことだで…』と落涙してその死を悼んだそうです。
 
 その為か、武田氏滅亡後、昌景の臣をはじめとする武田の旧臣は大量に徳川家康に召抱えられます。

イメージ 9 
井伊直政所用の『赤備え』
 
 家康はその多くを新興の井伊直政に預けました。
壮年期の榊原康政や本多忠勝には独自のスタイルがあり、若い直政が選ばれたんでしょうが、直政は武田旧臣を武田家のスタイルで編成し、装備も赤一色で統一した『井伊の赤備え』を作ります。

 戦いの戦術が変化し、騎馬隊の活躍の場は減りますが、それでも偶発的な会戦や劣勢な戦闘の中での後詰めの投入の際などには依然有効で、家康は井伊隊を常に遊軍として待機させ、ここぞと思う場所に投入して戦局の転換に使っています。
 
 やはり怒涛の赤い騎馬隊の出現は、敵将に“山県昌景”を思い起こさせ、戦慄させるに十分だったのでしょうね。
 
 
『設楽ヶ原の戦い《後編》』 につづく