設楽ヶ原の戦い≪前篇≫
 
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 5月18日からの織田・徳川連合軍の到着と陣城構築を見ていた武田軍では、さまざまな議論がなされていました。
 
 山県昌景や馬場信春ら歴戦の宿老達に共通した意見は“信長の罠”であり、幾多の戦場を経験した信長が満を持してのことだから、何らかの策略であり、迂闊に乗るべきではない。
敵は倍以上の兵力だし、明確な勝利は難しい、ここはひとまず兵を引き、次の機会を待つべきだ…というものでした。
 
 これに対し勝頼側近の跡部、長坂を中心とした意見は、敵があの様に柵に籠るのは、わが軍を怖れている証拠、数は多いものの戦意は低く、前軍を蹴散らせば雪崩を打って尾張に逃げ帰る…という過激なものでした。
 家中での勝頼の統率力はいまだ浸透し切っておらず、『小城ひとつ落とせず、信長が出てきたら戦わず逃げ戻った』となると、勝頼の立場はますます危ういものになる…という背景からだと思われます。
 
イメージ 9大河ドラマ『真田丸』より
 
「ここは負けておく」という選択肢を持てない勝頼にとって、かつてない厳しい判断を迫られる場面となりました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 最終判断をせねばならぬ勝頼もそれは同じ気持ちで、ともかく向こうから出て来る事は無さそうなので、対陣して出方を見てみよう…と、設楽ヶ原に布陣する下知を下しました。
 
 武田の勝利の方程式とでも言うか、緒戦の一点集中の波状攻撃の威力の凄まじさは見て来ており、兵は少なくとも最初のひと当てで敵を後退させ、その勝利を持って凱旋する…という気持ちだったかも知れません。
 
 一夜明けた20日の早朝、突如背後から大量の鉄砲の音と鬨の声が響いて来ます。
『後方で戦いが始まったか! 誰と!?』  武田軍は混乱に包まれ、物見の百足衆が駆け去って行きます。
それと入れ替わる様に、長篠城攻囲の軍から伝令が届き、砦群が急襲されている旨が伝わり、前線の各隊にも伝令が走ります。
 
イメージ 4武田の伝令将校はムカデの旗を背負い『百足衆』と呼ばれました
正確な情報収集と伝達、そして対応案の具申まで求められる“幹部への登竜門”でした。
後ろに下がる事ができないムカデは、広く武士に愛されたデザインです
大河ドラマ『風林火山』より
 
 
 
 
 しばらくすると、各砦から火の手が上がり、織田・徳川の陣所からは大きな歓声が上がります。
燃えるという事は陥落した事を意味し、両軍の将兵の志気が一気に逆転します。
『これはマズイ!』と感じた前線の宿老からは勝頼の下知を求める伝令が飛びます。
こうなれば、もう戦って勝つしかありません。
 
 間もなく百足衆が戻ってきて、東の山の砦の陥落と奇襲軍の概要、すでに川を渡りつつあり、攻囲の隊と戦闘に及んでいる事などが伝えられます。
 退路の三州街道を押えられると、最悪の退却も覚束なくなります。
勝頼は自らの旗本隊に後詰めと退路の確保を指示し急行させました。
たぶんこの中には真田昌幸(武藤喜兵衛尉)も居た事でしょう。
併せて前線にも攻撃の命令が出され、伝令が飛びます。
 
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 かくして、設楽ヶ原で戦闘開始は午前6時と言われ、延々8時間に及ぶ長い戦いが始まりました。
 まず突撃したのは最左翼に陣取る山県昌景と、最右翼の馬場信春の隊でした。
 
 自陣のある山を駆け下り、中央を流れる連吾川を渡り、今度は敵陣めがけて駆け上がる…。
 しかし6月の設楽ヶ原は満々と水を湛えた段々の水田地帯で、いつもの様に平原を駆け抜けるのとは勝手が違います。
兵馬の歩速はおのずと低下してしまい、勢いが失われがちでした。
 
 連吾川流域は下流に行くに従って谷が深くなっていて、それだけ登る「角度も大きくなり、左翼から攻める山県隊にとっては誠に不利な環境です。
 それでも兵は次々と木柵に辿り着きましたが、敵兵は後方に退いて、鉄砲を構えています。
 木柵を倒しに掛かる山県隊に一斉射撃が加えられ、多くの兵が斃れます。
堪らず一旦後ろに退いた隊に変わり、新たな隊が同様に波状攻撃を仕掛けますが、同じ状況に陥り、これを繰り返すうちに山県隊は見る見るその数を減らして行きます。
 
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連吾川下流は上流に比べ谷が深く、高い段の水田が重なっています
 
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やっと辿り着いた敵陣の前には木柵が三重に施され、その後ろからの一斉射撃で、武田の将兵はバタバタ斃される… 極めて困難な戦いとなりました
 
 
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設楽ヶ原歴史資料館にある膨大な火縄銃のコレクション
『山県と馬場に好きな様に戦わすでにゃあだで!』 信長は鉄砲隊を両翼に集中配備し、強力な突破力に対処しました
 
 結局は相対する徳川の大久保忠世隊、大須賀康高隊に大きな打撃を与えられぬまま、山県昌景は鉄砲に撃ち抜かれて討死にしてしまいました。
 
 地理的条件の良い右翼の戦闘は少し違った展開を見せます。
織田の佐久間盛信隊めがけて最初に突っ込んだ馬場信春隊は大量の鉄砲の攻撃に後退を余儀なくされますが、替わって出て来た土屋昌次、真田信綱隊は柵を一重二重と突破して行きます。
 最後の三重目の柵に掛かった所で昌次も鉄砲の餌食となり、真田昌幸の兄:昌輝も戦死してしまいます。
 
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柵を出ての白兵戦となった中軍の柳田前激戦地
小幡信貞隊と徳川の石川数正、鳥居元忠が激闘を演じました。
歩いているのは資料館の館長さん(?)です。親切な方でしたよ。
 
 しかし、再度出て来た馬場信春隊が突破した事で徒士武者同士の白兵戦となり、佐久間盛信は後退して行き、佐久間陣所の丸山は信春が占領します。
 両翼の戦況に釣られる様に、中軍では内藤昌豊、小幡信貞、一条信龍の隊が突っ込みます。
 鉄砲を両翼に集中してた織田・徳川軍は中軍ではすぐに討って出ての白兵戦になり、大混戦になりました。
 
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『徳川に受け継がれた赤備え 山県昌景』につづく