家康の野望 付け城群の壊滅
 
 設楽ヶ原で連吾川をはさんで対峙した両軍ですが、それぞれに違う思惑を秘めていました。
 
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『両軍が対峙した設楽ヶ原』
☆武田勝頼は東三河の回復のため長篠城を囲み、家康の主力に打撃を与えて、この地域での主導権確保を狙っていましたが、信長が大軍で出て来る誤算があり、しかも城柵に籠ってしまった…。これでは会戦するにも難しい戦いになってしまいます。
家中は議論沸騰してた事でしょうね。
 
☆織田信長は同盟者:家康の要請に応える事と、勝頼の三河からの撤退が必須の条件でした。
積極的な会戦は無益と考え、もし攻められた時に最少被害に喰い止め、負けない為の野戦築城であり、鉄砲の大量装備だった筈です。
睨み合いのまま勝頼が諦めて撤退するか、何らかの交渉の末に和睦して双方撤兵するかの選択肢を考えていたと思います。
 
☆最後に徳川家康は、この有利な千載一遇の機会に何とか武田軍に大打撃を与えて、二度と三河や遠江に出て来れない状態に持って行きたいという野心がありました。
 
 こうした至近の対陣では、お互い穴の無いバランスでの陣立てで対峙しているので、一旦どこかで戦いが始まれば“退く”という行為はとても危険で困難になり、全面的な戦闘になるしかありません。
 
 こうした中、19日夜の織田・徳川連合軍の軍議の中で、家康は積極会戦を提案します。(発言は酒井忠次でしたが)
忠次が徳川勢を率いて夜間に迂回移動し、夜明けとともに武田の長篠城攻囲陣を襲撃し、長篠城を解放すると共に武田の退路を断つというもので、設楽ヶ原の本隊は後方の異変に動揺し混乱する武田勢の乱れに乗じて襲い掛かり、追撃戦での大勝利を目論んだものだった様です。
 
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長篠城を囲む武田の付け城のひとつ『鳶ヶ巣山砦』
 
 『戯れ言を申すでにゃあ!』…と即座に提案を退けた信長でしたが、閉会後に密かに関係者を集め、作戦の実行を指示します。
 最も危険のリスクを伴う奇襲部隊を徳川が担う事と、奇襲成功時の武田の対応を読んだ上で、勝利のストーリーが見えて来たのでしょうね。
ただ、設楽ヶ原では絶対に柵を出ない事を厳命した上で、奇襲の成功を期して、自軍の鉄砲隊と検使役:金森長近を付け、総勢4千の奇襲隊を編成しました。
 
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『鳶ヶ巣山砦』から見下ろす長篠城
 
 酒井忠次の奇襲隊は夜陰に乗じて密かに自陣後方から豊川を渡り、常寒山の尾根伝いに行軍し、長篠城の宇連川対岸に構築されていた砦群の裏手に着くと夜明けを待ちました。
 これは地の利に明るい徳川勢にのみ出来る行軍で、武田の将兵は背後の深い山から敵が来るなど思いもよらず、その多くが安眠を貪っていた事でしょう。
 
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鳶ヶ巣山上に建つ戦没者の墓
 
 
 夜が明けると奇襲隊は五つの砦に同時に襲い掛かります。
不意を衝かれた砦の将兵達は成す術もなく追い落とされ、三枝昌貞、名和宗安、飯尾助人、五味高重など名の有る武将が相次いで戦死してしまいます。
鳶ヶ巣山の砦では主将格の河窪信実(信玄の弟)も討死にしました。
 
 勢いに乗じた奇襲隊は川を渡って長篠城を解放すると、西岸の有海村に布陣していた高坂昌澄隊に襲い掛かり、討ち取りますが、小山田昌成の反撃を受けて深溝松平家の伊忠が戦死しています。
 しかし、武田勢の虚を衝いた奇襲は守備兵の質も相俟って大成功を収めました。
 
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 ちょうどその頃、設楽ヶ原でも朝を迎えていました(当たり前でしょ!!)
季節は梅雨時で、いつになく靄の濃い朝だったそうですが、布陣する武田軍の将兵は突然、背後からの夥しい銃声と鬨の声を聞き動揺が広がっていました。
 
 
 
『不運の武将 酒井忠次』
 
 “酒井忠次”と聴いてピン!と来る人は徳川通でない限りあまり居ないと思います。
徳川四天王のひとりで、他は井伊直政、本多忠勝、榊原康政…となりますが、一般の知名度では少し劣る感じがしますね。
 
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酒井忠次画像
 酒井家は松平氏の一族で、家康にとって家臣というより親類に近い存在で、家康が今川氏に人質として送られた時には同行しており、共に辛苦を味わっています。
家康より15歳年長の忠次は家康にとって“兄”の様な存在だったかも知れませんね。
 
 長篠の戦いが起こった当時、忠次は徳川家中で筆頭の宿老であり、東三河を統括していました。
忠次47歳、武勇と智略を兼ね備えた、まさに脂の乗り切った武将で、忠次が居たから今回の奇襲作戦も立案出来たと言えます。
 忠次も期待に応え、家康が目論んだ以上の戦果を挙げ、武田氏を滅亡へと追いやります。
この時が忠次のピークでした。

 その後、家康は北条、上杉と天正壬午の乱を戦い、秀吉とも戦った上で豊臣臣下となり、北条も攻め滅ぼして行きます。
領地も飛躍的に拡大し、その過程で本多忠勝や榊原康政などの将が育ち、井伊直政という新参の将も頭角を現して来ます。

 また組織の拡大は、前線と中央といった分業体制に変化して行き、本多正信といった参謀も現れ、ピークを過ぎたオールマイティ忠次の出番は次第に無くなって来ます。
家康も口うるさい年上の忠次が次第に疎ましくなって来たのかも知れませんね。
 
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徳川十六将図 常に家臣の最上位として扱われた忠次でしたが…
 
 また、家康に遠ざけられた要因はもうひとつあって、天正7年、織田信長が家康の嫡子信康に対し、勝頼との密約の疑いで処罰を要求した際、信長に対し弁明する機会がありました。
 家康は妻子の命に拘るピンチに、全幅の信頼を置いていた忠次に弁明使を依頼し、岐阜に送ります。
 しかし忠次は弁舌が苦手だったのか、信長の気迫に押されたのか、何ひとつ信康を擁護できず、結果、家康は信康を切腹させるしかありませんでした。
 そんな事もあり、忠次は家督を嫡子家次に譲り隠居して、一線から退きます。

 北条氏が滅び、関東250万石が家康の領地になると、家康は譜代の主要な家臣に領地を与え要所に配置して行きます。
 上総大多喜10万石に本多忠勝、上野館林10万石に榊原康政、上野箕輪10万石には井伊直政…といった具合ですが、忠次の子で酒井家当主の家次に与えられたのは下総臼井3万石でした。
 
 四天王筆頭と言われ、前期の苦しい時の家康を一人で支えた自負のある忠次は、あまりの冷遇に自ら陳情に行きます。
 終始冷たい表情で忠次の言い分を聴いていた家康から最後に発せられた言葉は、『其の方でも我が子が可愛いか?』
言葉を失った忠次は、頭を下げ退出するしかありませんでした。
 
 

『設楽ヶ原の戦い≪前篇≫』につづく