織田信長着陣
 
 5月14日の夜半に長篠城を抜け出た鳥居強右衛門は、豊川の流れを下って上手く武田の包囲網を掻い潜り、4kmほど下流で陸に上がり、翌15日の夜明けを待って“脱出成功”の烽火を上げると、岡崎までの道のり(60km)を一目散に駆けます。
そしてその日の午後には岡崎城に辿り着き、家康に武田の陣容と長篠城の窮状をつぶさに報告しました。
 
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織田・徳川連合軍が終結した家康の三河の拠点:岡崎城
60kmを半日で駆けた強右衛門ですが、何処かで馬を調達したのでしょうね。

 ちょうどその日は織田信長が自ら3万の兵を率いて岡崎に到着した日でもあり、城下に溢れかえる織田の軍兵を眼にし、『明日にでも長篠に向かう』との家康の返事を得た強右衛門は、休息の勧めに対し『一刻も早くこの朗報を城兵達に知らせたい』…と、長篠への道を急ぎ戻って行きました。
 
 この頃の織田信長は、前年に長島一向一揆を平定し、その年の正月には越前一向一揆にも勝利し、本願寺との間に暫定的ではあるものの和睦が成立していて、比較的余裕のある状態で岐阜に居ました。
そこへ勝頼の来襲と救援を求める家康の使者が飛び込んで来ます。
 これまで半端な陣容で武田や上杉と対戦して、散々に辛酸を舐めて来た信長にすれば、直接対決は避けたい所でしたが、武田の陣容が意外にも少数なのを聴き、『ここは圧倒的な兵力差で対峙し、動員できる戦力の違いを見せておこうか』と出陣を決意します。

 自ら率いる兵は武田の倍の3万といわれ、従う将は織田信忠、河尻秀隆、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、佐久間信盛、滝川一益、佐々成政、前田利家、稲葉一鉄…と、オールスター編成でした。
 これに徳川家康の総力ともいえる8千の兵が加わり、16日には岡崎を出発します。
 
 一方、岡崎から取って返した鳥居強右衛門は、また不眠不休で駆け抜け、16日の早朝には前日に烽火を上げた山に着いて『援軍来ル!』の烽火を上げます。
次いで長篠入城を試みますが、武田兵に見つかり、捕えられて処刑されてしまいました。
 
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合戦の舞台となった設楽ヶ原
小川が造る谷間と丘が幾重にも続く準平原です
 
 岡崎城を発した織田・徳川連合軍3万8千は、18日には到着し、長篠城の西4kmの“設楽ヶ原”に布陣します。
 まだ長篠城を落とせていないままでの大軍の出現に、勝頼は逆包囲を警戒して慌てますが、織田・徳川連合軍の動きは意外なものでした。

 設楽ヶ原は西の本宮山の山系から豊川に注ぐ支流が幾つも流れ、それぞれが谷間を造って、丘と谷が繰り返す“準平原”の様な場所です。
織田・徳川連合軍はその中の『連吾川』の西側を最前線にしてズラリ布陣し、その西の大宮川とさらに半場川の谷間にも後詰めの隊を分厚く配置します。
 しかも連吾川の西の山の斜面を削って土塁を造り、馬防の為の木柵を結わえる、野戦築城を始めたのです。
 長篠城救済にすぐにでも攻めて来るのかと思いきや、『こちらからは攻めないけど、攻めて来たら戦う』的な長期滞陣も辞さない姿勢です。
 
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野戦築城された連吾川西岸の織田陣所 羽柴秀吉陣所あたりに復元されています
武田騎馬隊の突進を想定した馬防柵は実際には三重に施され、兵はその後方の土塁上に待機していました。
 
 もともと徳川家康+織田の援軍との直接対決が目的の勝頼でしたが、信長が自ら大軍を率いて出張って来るのは想定外だったでしょうね。
当時は尾張兵の弱さには定評があり、徳川の兵とは“三方ヶ原”などで何度も対戦済みです。
野戦での対決となれば多少の劣勢でも自信はあったのでしょうが、このままでは攻城戦になってしまいます。

 18日の軍議でもいろんな対応が協議された様ですが、勝頼の下した結論は『攻めて来る気配が無いので、ともかく対陣する』事に落ち着いた様です。
三河まで遠征して来て“手ぶら”で尻尾を巻いて帰る事は出来ませんから…。
 
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設楽ヶ原に布陣した両軍の陣立て
日本史の教科書に出てくる名前ばかりですね。 兵の数は少ないと言えども、左翼に山県昌景、中軍に内藤昌豊、右翼に馬場信春を配した武田軍の豪華な陣容は、織田・徳川の諸将の眼には脅威に映った事でしょうね。
 
 翌日、退路を確保する為に長篠城への抑えを残した武田軍1万2千は続々と移動し、連吾川をはさんで織田・徳川連合軍と対峙して布陣しました。
 信長にして見れば、武田軍と力対決をして要らぬ被害を蒙る気などさらさら無く、勝頼が陣を払って甲斐に戻る判断をしてくれる事がベストな選択でした。
世の趨勢はもう織田家に向かって流れており、いずれ膝を屈して服さなければならない力の差なのですから。
 
 そうなると困るのは徳川家康で、このまま引き分けに終わってしまうと、また遠江や三河で武田との辛い戦いが続く事になります。
せっかく引っ張り出した信長にはこの際に勝頼を完膚なきまで叩いて貰わないと何にもなりません。
 
 三者三様の重苦しい空気が設楽ヶ原に流れますが、ここで徳川家康が大胆に仕掛けます。
 
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長篠城攻囲に残された兵は3千、顔ぶれからも手薄感は否めませんね
 
 
 
『城兵達に殉じた鳥居強右衛門』
 
 鳥居強右衛門は奥平家の直臣ではなく、家老の生田氏の家臣(陪臣)だったと言われています。
鳥居氏は徳川家康の重臣に鳥居元忠が居る様に、三河に広く栄えた氏族で、強右衛門も一族のひとりだった様ですが、出自は判らないものの、当時は名もない足軽だったそうです。
 
 長篠城への入城を試みて捕まってしまった強右衛門ですが、武田の武将に嘘の情報を叫ぶ様に強要されます。

城に向かって援軍は来ぬから降伏する様呼び掛けろ! そしたら命は助けてやる!』
『…わかったずら』

武田兵に促されて宇連川対岸の高台に引き出された強右衛門は大音声で城に向かって叫びます

『皆の衆!強右衛門じゃ! 援軍はすぐ来るで! もう2,3日の辛抱だで!!』
『ぬ、ぬしゃ、なんば言いよっとか! ええい腹んたつ!!』
 
 怒った武田兵に打ち据えられた強右衛門は磔にされ、城兵の目前で処刑されてしまいました。
享年36歳でした。
 城兵達は嘆き悲しんだものの、強右衛門の心意気は城兵の隅々にまで伝わり、却って抗戦の力を強める結果となってしまいました。
 
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長篠城の資料館にある強右衛門の像
近年の作と思われますが、処刑前の強右衛門が鬼の形相で睨んでいます。
しかし、実際の強右衛門は、やがて救われるであろう城の仲間達の事と、彼らを裏切らなかった自分への安堵感で、穏やかな表情で処刑されたと思うのです。
 
 
 武田兵の中で、この一部始終を見ていた落合佐平次は、磔になった強右衛門の姿を急ぎ筆を取って描き止め、後に自身の旗指物にして使ったそうです。
『武士とはかくあるべし!』 敵ながら天晴れな強衛門の行動にたいそう感動したのでしょうね。
 
 その絵が現代に残り、長篠城の看板となって掲げられています。
 
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長篠城入り口のフンドシ看板』
強右衛門は命懸けで守った長篠城を現在も見守り続けています
 
 戦後、強右衛門の行為に感動した織田信長は自ら墓を建立してその霊を弔いました。
奥平信昌は強右衛門の子:信商を直臣に貰い受け、100石を与えて優遇したそうで、その13代後の商次は奥平家(忍藩)の家老にまでなっています。
 ちなみに、墓の最寄にあるJR飯田線鳥居駅が、強右衛門にちなんで命名されたのは言うまでもありません。
 
 
『家康の野望 付け城群の壊滅』につづく