長篠城攻防戦
天正2年(1575年)、勝頼は徳川に寝返った東三河の山家三方衆(田峯:菅沼氏、長篠:菅沼氏、作手:奥平氏)討伐を目的に兵を起こし、自ら1万5千の兵を率いて三河に侵攻し、長篠城を囲みます。

長篠城本丸土塁
小規模な城域にも拘わらず、土塁の立派さが印象的な城址です
この三氏の寝返りには作手の奥平氏が積極的に関与しており、当主:奥平貞能の嫡男:貞昌には家康の娘:亀姫が嫁す事が決まっていて、領地作手を捨て、一族郎党で家康に奔った貞能には、改めて菅沼氏の長篠城が与えられ、僅か5百の寡兵ながら旺盛な戦意を持って守っていました。
一方の武田の戦力ですが、名目通りにこれら小城群を奪還するにしては大袈裟な編成ですが、救援に来るであろう家康や信長との戦いを見越すと、かなり少ない(信玄西上作戦の半分)、中途半端な感じの拭えない、不思議な人数での遠征です。

『長篠城包囲陣立図』
小城の長篠城を大軍で取り囲み、ジワジワ攻める武田軍
勝頼は少し離れた高所に布陣し、城の南側には誰かを待つ様に、山県昌景隊と小山田信茂隊、穴山信君隊が南を向いて布陣しています。
小城の長篠城を大軍で取り囲み、ジワジワ攻める武田軍
勝頼は少し離れた高所に布陣し、城の南側には誰かを待つ様に、山県昌景隊と小山田信茂隊、穴山信君隊が南を向いて布陣しています。
やはり、長篠城を囮にして家康を誘き寄せる作戦か…。
これも勝頼の狙いを読みにくくしている一因なのですが、出征の顔ぶれを見る限り、主立った武将は殆んど参加しているので、少数精鋭の選抜軍という見方は出来ます。
もしかしたら、信玄の死が上杉、北条など周辺に漏れ伝わりだしたタイミングですから、勝頼が三河まで動かせる最大動員兵力はこの程度しか無かったのかも知れませんね。
もしかしたら、信玄の死が上杉、北条など周辺に漏れ伝わりだしたタイミングですから、勝頼が三河まで動かせる最大動員兵力はこの程度しか無かったのかも知れませんね。
長篠城は日本百名城にも選定され、豊川と宇連川が合流する河蝕崖に建つ堅固な城で有名ですが、その規模は200m四方ほどの範囲しか無く、北側は平地続きで、城内を見下ろす大通寺山が間近に迫る、およそ名城には程遠い小城です。

ここに来る度に、『なんで勝頼は一気に踏み潰してしまわなかったのか?』…と疑問に思うのですが、長篠城を囲んだ勝頼は、周囲の山々に付け城を築いて、長期戦の構えを取ります。

巴城郭跡に迫る大通寺山の山塊 この城の限界を感じてしまいます

規格外の高さを持つ本丸高土塁の内側
四方八方からの狙撃の矢弾が飛び交う中、城兵達はこの陰に身を隠して、じっと耐えていた事でしょう
5月の初めに始まった攻城戦は、鉄砲を大量に持ち込んでいた奥平勢の善戦で、武田勢も攻めあぐねますが、10日も経つと徐々に攻め込まれてしまい、本丸と二ノ丸を残すだけになっていました。
このタイミングで食糧蔵を焼き払われてしまった事で、籠城側は一気にピンチとなり、奥平貞昌はこの窮状を家康に伝え、一刻も早い救援を要請する為、家臣で泳ぎの達人の鳥居強右衛門勝商を伝令に岡崎城に派遣する事を決めます。
このタイミングで食糧蔵を焼き払われてしまった事で、籠城側は一気にピンチとなり、奥平貞昌はこの窮状を家康に伝え、一刻も早い救援を要請する為、家臣で泳ぎの達人の鳥居強右衛門勝商を伝令に岡崎城に派遣する事を決めます。

野牛郭から見る豊川の流れ
鳥居強衛門は潜水して流れを下り、はるか下流で上陸して包囲を突破し岡崎に向かったそうです
強右衛門は14日の夜、野牛郭から夜陰に紛れて豊川に入ると、静かに泳いで下流へと向かいました。
奥平氏の戦後
家康との縁戚を条件に寝返った奥平氏ですが、長篠城で耐え抜いた貞昌は戦後に信長から“軍功抜群である”と評価され、信長の信の一字が与えられ、以後は信昌と名乗る栄誉を得ました。
約束通り家康の息女:亀姫が嫁ぎ、信昌との間には4男1女を授かり、奥平氏は大いに繁栄します。
家康との縁戚を条件に寝返った奥平氏ですが、長篠城で耐え抜いた貞昌は戦後に信長から“軍功抜群である”と評価され、信長の信の一字が与えられ、以後は信昌と名乗る栄誉を得ました。
約束通り家康の息女:亀姫が嫁ぎ、信昌との間には4男1女を授かり、奥平氏は大いに繁栄します。
家康の関東移封では上野小幡3万石を領し、関ヶ原の後は美濃加納10万石に加増されました。
この時、信昌の4人の男子(家康の外孫)には松平姓が与えられ、長男:家昌は上野小幡3万石を継ぎますが、以後各地を転封し、豊後中津10万石で維新を迎えます。
二男、三男は早くに無嗣改易となりますが、四男:忠明の家系は作手藩を立藩してもらい、こちらも転封を重ねながら、武蔵忍藩10万石で維新を迎えました。
この時、信昌の4人の男子(家康の外孫)には松平姓が与えられ、長男:家昌は上野小幡3万石を継ぎますが、以後各地を転封し、豊後中津10万石で維新を迎えます。
二男、三男は早くに無嗣改易となりますが、四男:忠明の家系は作手藩を立藩してもらい、こちらも転封を重ねながら、武蔵忍藩10万石で維新を迎えました。


左:奥平貞能画像
家康に寝返る、一世一代の賭けは家臣の頑張りもあって吉と出ます
右:奥平信昌画像
若干二十歳の青年武将はシンデレラボーイとなり、子孫の繁栄をもたらしました
奥平松平氏は、家康の母の再嫁先だった久松松平氏と同様に、直系の松平一族ではないものの、徳川親藩として優遇され、江戸時代を過ごします。
すべては貞能の判断と、決めた事を実践する貞信の頑張りが身を結んだ最高の事例と言えるでしょうね。
すべては貞能の判断と、決めた事を実践する貞信の頑張りが身を結んだ最高の事例と言えるでしょうね。
『織田信長着陣』につづく