またまた昌幸シリーズです。
 
今回は勝頼が自ら敷いた武田家の管理体制と、それが破綻する契機となった『長篠の戦い』を通して、武田家の質の変化に迫ってみます。
 
 
武田勝頼の支配体制
 
 元亀4年(1573年)、西上作戦の陣中で没した信玄の遺言に依り、戦国の雄『武田家』を継承した勝頼でしたが、家中には様々な思惑が交錯しており、当初から波乱のスタートとなりました。
 まず家系図から見て行きます。
 
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 信玄には義信という嫡子が居ましたが、妻の実家:今川家を巡る処遇で対立し、廃嫡され、すでに病死しています。
 次男の信之は早世し、三男の竜芳は盲目だった為、早い時期に四男の勝頼に家督が廻って来た形となり、信玄もそのつもりで育成していました。
 しかしこの決定には家中から異論が出ており、その理由は勝頼の母が信玄が征服した諏訪氏の娘(人質)であった事が大きかったと言われます。
 
 義信と同じ母を持つ竜芳の想いも複雑だったでしょうし、かつて諏訪氏と刃を交えた信玄の弟達や、親類衆、譜代の家臣団にも釈然としない想いがあった事でしょう。
 それに加え、勝頼が生まれて間もなく諏訪家を継承し、母と共に諏訪で暮らし育った事への馴染みの薄さや、今後は諏訪家系の家臣が重用されるのではないか…という漠然とした不安もあっての事と思われます。
 
 そうした事がクリアにならないまま迎えてしまった信玄の死でした。
特に強硬だったのが親類衆で、中でも二代続けて武田宗家から妻を迎えている穴山信君などは、勝頼軽視の言動が甚だしかった様ですね
 
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『武田勝頼画像』
現在でも信玄との能力差について取沙汰されてしまう勝頼ですが、戦国大名の跡継ぎとしては、十分な資質を備えた青年武将だったとも言われます。
 
 
 一方で、家督を渡された勝頼ですが、すでに一軍の将としては認知されていた27歳、そうした家中の視線には目もくれず、偉大な父親の偉業継承に邁進して行きます。
 勝頼が頼りにしたのは『武田四天王』と呼ばれた高坂昌信、山県昌景、内藤昌豊、馬場信春の歴戦の宿老達で、彼らも『敬愛する御屋方様の遺命を果たす』為にも、勝頼を盛り立てて行く途に全力を尽くします。
 
 信玄から『三年は喪を秘し外征を慎め…』と遺言された勝頼でしたが、窮地を脱した織田信長・徳川家康の動きは速く、その年のうちに信長包囲網の黒幕だった足利義昭を河内に追放し、越前朝倉氏や近江浅井氏を滅ぼしてしまいます。
 また家康も信玄に蹂躙された領内の諸城を積極的に奪還して行き、武田傘下だった亀山城の奥平氏の寝返りにも成功して逆襲を始めていました。
 
 これでは手遅れになると感じた勝頼は、秋山信友を東美濃に派遣して岩村城を奪取させ、織田領にクサビを打ち込みます。
 その一方で天正2年(1574年)、駿河から遠江にも侵攻し、徳川領を再び蹂躙して、遂には浜松城にまで迫って城下を焼き払うまで攻め込み、徳川に対し『強い武田』を示します。
 
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『高天神城遠景』
 東遠江の中心だった要害の高天神城は、何度も武田の攻撃に耐えて来ましたが、今度ばかりは援軍を期待できる状況になく、降伏開城を余儀なくされました。
 
 その中で、以前に信玄が囲んで落とせなかった『高天神城』を陥落させた事で、当主としての自身の成長を確信すると同時に、信玄の真似ではない『勝頼の武田』を模索しだした様です。
 
 
  その後勝頼は宿老の4人に対し、外様の与力を束ねる方面軍の長としての役割を強く求めて、躑躅ヶ崎から遠ざけてしまいます。
そして意のままに動く譜代の数名を側近として重用して、次第に独裁的な色彩を前面に押し出す様になって行きました。
 何かにつけて『信玄公はこうなされた…』と言われた訳では無いにせよ、父:信玄には敵わない宿老達への影響力を見せ付けられる日々に、自分独自のスタッフを…と考えたとしたら、新しい御屋方様にとっては自然な事かも知れませんが…。
 
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『体制の変化』
信玄は四天王を中心にしながらも、個々の武将と直接意見を交わす関係を重視していました。
また新参の外様からは子息を人質に取り、近習として手元で育てる事で次世代での結び付きの強化を図って行き、それが家中の一体感に繫がっていました。
 
 
 
『長篠城攻防戦』につづく