真田丸の痕跡探し歩き
 
 近鉄の鶴橋駅で下車して、真田山公園を目指します。
大坂冬の陣から400年が経過し、すっかり大都会となった大阪の中心部。
地形に多少の名残りが残っていれば…と一縷の期待を持ってやって来ましたが、ビル群が密集してて、地面のラインを見るのはほぼ絶望的ですね。
 
 
真田山公園に近い玉造筋の景観イメージ 4
ビルが建ち並んでいて、地形は判然としません

 

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そうした場合、道路のアップダウンが唯一、地形を知る手掛かりとなります
 
 残るは道路のアップダウンから地形を想像して候補地を絞って行くしかありません。
 真田丸も大坂城の外堀も、冬の陣の和睦の条件で戦後に突貫工事で破却・埋め立てされた様ですから、土塁を崩して埋め立てた地形の断面を想像して(下図のような)、該当箇所を探します。
残ってるかなぁ…?
 
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 真田山公園に着きました。
平坦な運動公園が広がっていて、東には緩く傾斜があるものの、西にはほぼ平坦な台地が続きます。
 
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真田山公園は意外にも、真っ平らな公園でした…。
 
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周囲ともさしたる段差はありません
 
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公園の北側は一段高くなって真田山小学校があり、前の道は東に向けて落ちて行ってますが…。
 
 
 北を見やれば少し高くなってる様なので、あそこはもう大坂城内だったのかな?
しかし、この公園はどうも…城址の匂いがしません。

 途方に暮れる感じなので、用意した立体地図で確認して見ます。
 
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北に幹線道路の『長堀通り』が東西に走り、地名も空堀町。
通りに添って②人工感の強い真っすぐな崖が続きますから、豊臣大坂城外堀土塁の痕跡と思われます。
平野口はここにあったのではないか。
 
 この辺りは③上町台地の東端にあたり、蝕崖が入り組んだ複雑な地形になっています。
 空堀町から空清町にかけて南西に奥深い谷が形成されていますが、古地図の大坂城外堀は南に膨らんでいるので、外堀は空堀町交差点あたりからはこの谷に沿って南西に延びていたんでしょうね。
 
 そうすると、従来のイメージ図の真田丸だと、④の場所という事になりますが、ここは周辺でも一番低い場所で、目の前には台地が迫って来ており、上から狙われます。
 銃撃戦が主体の籠城戦に備えての出丸ですから、わざわざこんな場所に造る筈はありません。
 真田丸はもう少し南の、上町台地の一部を利用して造られていたに違いありませんが、①真田山公園だとすると、あまりに南に離れ過ぎ、大坂城との行き来もままならず、敵中に孤立してしまいますから、ここもありません。
此処は真田丸と前田家の陣所の間にあった『篠山』なのではないかな。
 
 
 消去法になりますが、⑤三光神社のある宰相山から心眼寺のある寺院エリアにかけてが、最も適地に思えるので、宰相山に移動します。
 
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宰相山です。
山と言えるほどの高さは有りませんが、平城っぽい雰囲気は有りますね。
 
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山の半分は真田信繁を祀る三光神社になっていて、
 
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真田色を前面に出しています
 
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信繁の銅像が建ち、おまけに大坂城まで続く“抜け穴”の史跡まで保存されています。
 
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しかしこれは、石を並べて組んだ後に、上から土を被せたのが見え見えな構造であり、真田丸の信憑性を邪魔してしまってますが、
 
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乗りの良い大阪人のご愛嬌…といった所でしょう
 
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宰相山のもう半分を占める、日清・日露の戦没者墓地は、勇敢に戦って果てた戦国の英雄の故地であるがゆえのロケーションだと思われ、信憑性を補完している気がします。
 
 
 事前調査不足から、なんとも説得力に欠ける取材結果になってしまいましたが、以上の事を総合して、真田丸の場所と大きさを再現してみます。
 
 
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 宰相山が中心の真田丸の縄張りは、外堀から空堀を馬蹄型に穿ってあり、東西・南北とも200m強の大きさだったと思われます。
 大坂城の堀際は平坦な低地となるため、掻揚げ土塁で高低差確保し固めていた事でしょう。
 井伊隊正面の西側は空堀は不明ですが、木柵で仕切ってある絵図がたくさん残っています。
この中も城内として機能し、後藤基次が布陣してた可能性があります。
 
 
 冬の陣で真田丸を攻めたのは、主に前田利常の隊でした。
信繫の挑発に乗ってしまった前田隊は、鉄楯を持たない軽装のまま堀に取り付きますが、真田隊の集中砲火を浴びて、進退が窮まり、4千もの損害を出しました。
 前田隊の攻撃に触発された松平忠直や井伊直孝の隊も無謀に突撃したため、同様の大きな被害を蒙ったそうです。
この1日の戦闘で懲りた徳川方は、以後は塹壕に閉じこもり、持久戦になりました。
 

  軍議で籠城と決まった時、信繁の頭に浮かんだのは、『家康を相手に現状より良い条件での和睦などあり得ない』事でした。
 良い条件を引き出す為には、部分的にせよ相手に大打撃を与えて、恐怖心を煽り、相手に先に厭戦気分を持たせる他ないのです。

 ただでさえ大きな恩賞は期待できず、付き合いで仕方なく参戦してる諸侯の多い徳川方ですから、できない話ではありません。
 その為の城外に張り出した“真田丸”での戦いで、この目論見はまんまと当たります。
『信繁とかいう奴め、さすがは昌幸の倅じゃわい…!』
家康は歯噛みして悔しがった事でしょう。
 
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『真田太平記』より  大坂夏の陣、信繁最後の突撃
 
 しかしそこは徳川家康のこと、やる気満々の浪人衆を相手にしても被害が増すだけなので、戦慣れしていない豊臣家の本丸を狙います。
 淀川の備前島に据えた大量の大砲で天守・御殿を狙い、最大の意志決定者である女性(淀殿)を恐怖に陥れ、徳川の絶対的有利な条件での和睦が成立します。
 
 その後の大坂城と豊臣家の末路は、敢えて書くまもでないので省略しますが、戦争は恐怖の中での我慢比べに他なりません。
しかし豊臣家は『今日の恐怖が解消されれば、明日はどうなろうと…』という安直な決断をしてしいました。
平時はともかく、戦時にトップがあやふやな人物だと、こうなってしまいますね。
我々もこうした歴史の教訓を無駄にしてはいけません。