大河ドラマの配役の話ではありません。
ドラマが始まる前に真田丸の跡と思われる場所を歩いて見たので、その実像に少し迫ってみたいと思います。

 

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真田丸址と伝わる、大阪市玉造本町の“三光神社”
 
 
 真田丸とは、御存知の通り、慶長19年(1614年)の“大坂冬の陣”に真田信繁が大坂城南外堀の外に築造して守った出丸です。

 豊臣大坂城は現在の大阪城公園(ほぼ徳川大阪城の規模)の6倍もの面積があり、一番外側の総構えは北に天満川が流れ、東西には広い水堀が造られていましたが、南側は上町台地を横断する為、平坦な台地を空堀で仕切っただけの構造であり、唯一の弱点と見られていました。
 
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 真田丸と攻防戦のイメージ図(蔵書より転載)
  真田丸は大坂城の平野口に直結して造られた出丸で、空堀に囲まれ、東西に200mの
 規模であったそうです。
 塁上には銃眼を持つ二重の櫓がビッシリ建てられていました。
 郭内からは東西に二ヶ所の土橋が架けられ、巨大な馬出しの機能であった様です。
  豊臣家も城外に出丸を築いて出張る信繁に一抹の不安を覚え、寝返って徳川勢を引き込
 んでも対処できる様に、平野口の内側には重臣の木村重成が布陣していました。
 この図は武田流丸馬出しを拡大した様なイメージで描かれていますが、少し大き過ぎる感じがします。
 
 “関ヶ原の戦い” から10年余りが過ぎ、徳川体制は盤石になりつつありましたが、65万石の一大名に転落したとはいえ、豊臣家はまだ健在で、天下人への野望もあり、それを支持する勢力もなお残っていました。
 徳川家康は天下取りの総仕上げとばかりに豊臣家の取り潰しを図ります。
 慶長19年(1614年)10月、数々の家康からの難題に窮した豊臣家は、ついに決戦を決意します。

 全国の諸大名や主立った浪人に大坂城から檄文が発せられ、大坂城への集結が促されますが、“豊臣恩顧”と呼ばれる大名の中にこれに応える大名は既に皆無の有様でした。
 しかし、関ヶ原での負け組や故有って主家を離れた浪人の中には、武士として生き残る最後のチャンスとして参集した著名な将士も多く、戦国の矢弾をくぐり抜けて来た歴戦の兵約10万が集結しました。
その中に真田信繁も居ました。
 
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冬の陣が終わって、徹底的に破壊された真田丸。
大阪の市街地のド真ん中でもあり、もう当然残っていませんが、『真田山公園』というのがあり、何かのヒントになりそうです。
 
 
 関ヶ原の際に西軍につき、本拠の上田城で徳川秀忠軍を散々に討ち破って“徳川に勝った”信繁(真田家)ですが、関ヶ原の本戦結果で改易となり、浅野家の監視のもと、紀州九度山に幽閉される身の上でした。
 そんな真田家にも豊臣家の誘いが届き、この機を待ちかねていた信繁は夜陰に乗じて九度山を抜け出し、大坂へ向かいます。
 
 
 大阪城に入った信繁は、烏合の衆である浪人衆を束ねる存在として優遇され、元土佐の国主:長宗我部盛親、黒田官兵衛の側近:後藤基次(又兵衛)、元豊前小倉藩主:毛利勝永、宇喜多秀家家老:明石全登とともに浪人衆5将のひとりに遇されています。
 
 そう知名度が高くなく、軍略や統率力も未知数な信繁が優遇された背景には、徳川と三度戦って負け知らずの、九度山で死去した父:真田昌幸の名将としての圧倒的な知名度があったからなのは言うまでも無いでしょうが…。

 

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大阪冬の陣は籠城戦となり、多くの戦いが銃撃戦でした。 これでは城方が圧倒的に有利です。(蔵書より転載)
 
 
 大坂城での軍議で5将は揃って“野戦”を主張します。
早期に伊賀や近江まで討って出て、有利な場所を確保し、緒戦で勝利する事で諸大名の寝返りを誘い、最終的には天下を奪還する戦術を提案しますが、大野治長ら豊臣直臣は“有利な和睦”にこだわり、籠城策を唱え平行線を辿ります。
こうなると結局は家主の豊臣家の意見が優先され、籠城に決定します。
 
 天下は欲しいが戦いはしたくない。危険な戦場に赴くのは嫌だから籠城して、潰しに来てる相手と話し合いでの和平を探る…。
近頃でも何処かでよく聴く相反する主張ですが、豊臣家に生死を賭けた決戦をする“戦国の血”はもう無かった様です。

 

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大坂冬の陣の配置図です。
 難攻不落の大坂城に籠る豊臣勢は10万、対する徳川勢は倍の20万で城を囲みますが、これでは城は落ちません。
 南の城外に突出した出丸の“真田丸”が唯一の攻撃目標とも言え、これが信繁の狙いでした。
父:昌幸直伝の野戦戦略を封じられた信繁にとって、かつて上田城で体験した(第二次上田合戦)、馬出しを使っての用兵と戦果が強烈に脳裏に焼き付いていたのでしょうか。
 しかし、関ヶ原から14年、大坂城内外の諸将も殆ど世代交代をしていて、戦国の戦場を駆けまわっていた武将の名前が殆ど見られないのは寂しいですね。
 
 
 落胆した信繁は、大坂城の弱点である南外堀の平野口の外に出丸を築いて守りを強化する事を提案し了承されます。
この時からもう、華々しく戦って、名を残して散る事だけを考えていたのかも知れませんね。
 
《後編》につづく