戦国時代の伊勢国の覇者:北畠氏の居館の跡で、三重県津市美杉町上多気1148にあります。
 
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北畠氏の拠点だった上多気の風景
前方の山裾に設けられた豪壮な居館は“多気御所”と呼ばれ、山上には詰め城の『霧山城』がありました
 
 北畠氏の祖は村上源氏で、村上天皇の七代後の源通親の三男:通方が中院家を立て、その子の雅家が洛北の北畠に住んだ事から北畠を名乗ったのが始まりのお公家さんです。

 北畠氏は上級の公家として、大納言、内大臣といった天皇の側近を務めますが、雅家の曾孫の親房は特に後醍醐天皇に重く用いられ、建武の新政を支えます。
 建武2年(1335年)、足利尊氏の離反で南北朝の争乱になると、親房は南朝方の実質的なリーダーとして、息子達と共に南朝方の武士を糾合して北朝(足利方)との戦いを指揮します。
 
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北畠親房 大河ドラマ『太平記』より  近藤さん、容堂公の前にも良い演技してますねw
 
 親房の元には新田義貞、楠正成などの武将が集い、尊氏を追い詰めて行きますが、西国武士団が足利に味方すると次第に劣勢となり、嫡男:顕家と二男:顕信が相次いで敗死すると吉野に戻ります。
 吉野では南朝の中心人物(摂政?)として軍政両面を指揮しますが、劣勢な中、賀名生で死去してしまい、中心となる人物を失った南朝は北朝との和睦の途を探る事になって行きます。

 北畠氏の家督は三男の顕能が継ぎ、伊勢国司として伊勢の多気を拠点に南朝方の軍事の支柱であり続けます。
 次の顕泰の代になった明徳3年(1392年)、南北朝合一が成り、北畠氏は現状勢力(伊勢の過半を領有)のまま室町幕府の体制に融合して行きますが、幕府から与えられる『伊勢守護』ではなく、天皇から与えられた『伊勢国司』を官職にする公家大名でした。
 その為、冠位も同規模の守護大名に比べ3~4段高く、多気の北畠氏の城館は『多気御所』と呼ばれたそうです。

 

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館跡に建つ北畠神社
 
 
 室町時代の安定期になると北畠氏は“徳川御三家”の様な分家を多数創出し、血脈の維持と支配体制を確立しますが、こうした旧南朝を機軸の特異な大名の存在は幕府にとっても目障りで、幾度となく討伐の対象になり、その度に戦争と和睦を繰り返す、決して平穏な日々では無かった様ですね。
 
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 そして世は戦国の時代へと突入します。
北畠氏の晴具、具教には戦国大名としての器量が備わっていた様で、自領の南伊勢五郡だけでなく、志摩から紀伊方面、そして大和へも拡大して行きます。
 伊勢では北隣の長野氏を傘下に収め、関氏の神戸家とも縁戚でつながり、北勢の小豪族群もいざという時の頼りは北畠氏でした。

 しかし具教の子:具房の代になると、伊勢は織田信長の侵攻を受けるようになり、神戸氏、長野氏が次々に織田家に乗っ取られてしまいます。
 1569年(永禄12年)には北畠氏も信長の侵攻を受け、激しく戦いますが、結局は信長の次男:信雄を具房の養子とする事で和睦しました。

 

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こうゆう神社の会が有るのですね
 
 
 信雄は1575年(天正3年)に北畠家の家督を相続すると、一族で有力者の木造具政を味方に引き込んで、北畠一族の大粛清を敢行します。
 翌天正4年、三瀬に隠居していた先代の具教が信雄に急襲され、四男・徳松丸、五男・亀松丸と共に暗殺されます。
次男:長野具藤、三男:北畠親成は田丸城にて一族の大河内教通、波瀬具祐、岩内光安、坂内具義と共に殺害され、坂内城、霧山城でも北畠の血筋の者は殆んど同時に殺害されました。

 具房は身柄を3年間幽閉された後、1580年(天正8年)京都で死去しました。
こうして北畠家は名実ともに織田家によって乗っ取られると共に、南朝の忠臣:北畠氏の血も絶えるのです。
 
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北畠氏歴代の当主を祀る社
信長の苛烈さを再認識すると共に、北畠氏の怨念を感じてしまいます…。
 

 1582年(天正10年)6月、信長が本能寺の変で憤死すると、信雄は織田家の後継者になろうといとも簡単に織田姓に復したため、名門:北畠家自体も滅亡してしまいました。
 
 
 
北畠氏館跡を歩く
 北畠氏館跡のある津市美杉町上多気は、山深い紀伊半島の山中にあります。
津市に合併になる前は多気郡美杉村と呼ばれた場所で、脇を走る『伊勢本街道』は、伊勢から宮川沿いを北上すると山間を縫うように西へ走り、大和の宇陀を経由して吉野へと続きます。
 
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 なぜこんな辺鄙な場所を本拠地にしたのか…?といえば、北朝方に対して劣勢となる軍事力の中で、大軍に攻められにくく、攻勢に出る街道が確保されたこうした場所にこそ、籠る意味があったと言えるのだろうと思います。
 伊勢湾に注ぐ雲出川支流のわずかに拓けた場所に『多気御所』とも呼ばれる居館を構え、万一に備えて背後の山上に詰めの山城を備えた、越前一乗谷に繋がる構成です。

 

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『多気御所』の周囲は僅かな農地が拓かれた狭い谷間です
ここも一乗谷と同様に城下町があったんでしょうか?
 
 今回は伊勢方面からアプローチしました。
北畠神社脇の“JAやまゆり”が駐車場なのですが、もう殆んど満車で混んでいます。 
予想外の事態に戸惑いますが、どうやら北畠神社で今夜『薪能』が催される様で、すでに(午後3時過ぎ)客が集まりだしています。
 静かな境内でじっくり北畠氏の痕跡を探そう…という目論見は見事にハズレてしまいますw

 

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境内では『薪能』の前座で琴の演奏がされていました
 
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庭園では野点で抹茶も振舞われています
 
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しかしこの庭園、相当にスゴイですね
 
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管領:細川高国の監修といわれ、回遊式の見事な庭です
 
 いずれにしても、霧山城も外せない山城ですし、木の葉が落ちたらまた再挑戦ですね。