北勢48家の二番目は、千草家です。
(この地方では千種家と書く事が大半なので、ここでも千種とします)

  戦国初期、千種家は北勢48家のうちの最大勢力で、朝明郡をほぼ掌握して兵力は1,000名を誇り、48家の棟領的な存在でした。
 この背景には、千草家の出自が村上源氏にあり(北畠氏と同族です)、公家の六条家から出た千種忠顕を祖とする事に所以します。
忠顕は後醍醐天皇に隠岐の島まで付き従った近臣で、建武新政後には参議に昇り、千草の地を得たものと言われています。
 
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後醍醐天皇の忠臣“千種忠顕”
『太平記』では本木雅弘さんが演じていましたね。
この人(実物)はかなりハチャメチャだった様で、毎晩家来を従えて、銀座や渋谷・六本木を飲み歩くタイプだった様ですw
 
 
 足利尊氏との戦いで敗死した忠顕ですが、子の顕経も父と同じく南北朝の騒乱では南朝に与し、北畠氏など南朝方の多い伊勢の国では名実ともに北部を統括する地位にあった様です。
 顕経は永徳元年(1381)に堅固な山城(千種城)を構え、以後の拠点としました。

 

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 北の梅戸家や南の小林家も千種家に臣従していたと言われますが、独自の所領はこの範囲か…。
 鈴鹿山脈の豊かな水に支えられ、東へと続くなだらかな地形は当時の穀倉地帯で、これらを繋ぐ街道(R306)沿いに人々の暮らしがありました。
 
 
 顕経から七代を経た常陸助忠治の時の弘治元年(1555)三月、近江の六角義賢が伊勢に侵攻し、三千余騎で千種城を攻めます。
忠治は篭城してこれをよく防ぎ、勝敗のつかない長期戦となりましたが、結局は男子の無い忠治に六角氏の重臣:後藤但馬守の弟が養子に入る事で和睦となりました。
養子は千種三郎左衛門と称し、これによって、千種家は六角氏に属する事になり、北伊勢の諸家の多くもこれに倣います。
 
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鈴鹿山麓に広がる水田地帯
水利・灌漑技術が未熟な中世以前は、豊富な水量があり、水を流しやすい緩傾斜のある山沿いの地が稲作に適した土地でした。
 
 
 その後、忠治に実子が生まれて、千種又三郎と名付けます。
忠治はなんとか実子の又三郎に家を継がせようと画策しますが、これを察知した三郎左衛門によって追放されます。
  忠治父子は城外で家来を集め、千種城を攻めますが、小勢しか集まらなかった為に城を落とす事は叶わず、近江に逃れて佐々木氏の食客となったそうです。
 
 永禄十年(1566)二月、伊勢に織田信長が侵攻して来ると、北勢の緒家の多くは戦わずして信長に臣従します。
三郎左衛門の率いる千種家も同様で、その後は信長の部将:滝川一益の属将として織田の戦いに従軍して行きました。
 
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千種家の居城:千種城登り口
山の斜面と切り崖を多用した嶮しい城です。(石段はかつての虎口ではありません)
 
 天正10年(1582)六月の本能寺の変の際には、信長の三男:神戸信孝に従って四国攻めに従軍していましたが、他の北勢緒家と同様に、山崎の戦いには加わらず、堺から独断で伊勢に帰還した様です。
 その後は滝川一益の配下で織田信雄と戦い、次には信雄配下で秀吉と戦い、常に負け組となった三郎左衛門の千種家は没落して行きます。

  この頃、前の当主の千種忠治は、卜斎と称して伊賀で禅門に入り隠居していましたが、織田信雄に召されて伊勢に戻り、千種村と千種城を与えられ、当主に返り咲きます。
そして、津城主:冨田信濃守の甥を養子にし、顕理と名乗らせて信雄に奉公させていましたが、信雄が秀吉に破れて臣下となり、のちに秀吉から追放処分となった事から、豊臣秀吉の直臣になって六百石を給されました。
 
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大坂城の露と消えた氏族がまたひとつ明らかになりました…。
 
 
 元和元年(1615)五月六日、大阪夏の陣で大坂城に籠った顕理は戦死し、ここに忠顕以来の名家:千種家の嫡流は断絶しました。
 
 
 
千種家の城を歩く

『千種城』
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本丸跡にある城址碑
百名城クラスの立派さです
 
 御在所岳の北東の尾根が東に落ちてきた、ほぼ先端の高みを利用して作られた平山城です。
千草家の居城と言われ、北の山裾を流れる小川を堀にして、梯郭式に作られた模様ですが、現在見られるのは主郭のみで、あまり整備は行き届いていないものの、空堀を挟んで二つの郭が視認できます。
 
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入り口の石標と説明看板 この横に石段がありますが…
 
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今回は右手のこの登り口から、クルマでエンジン吹かしながら、一気に郭内に乗り入れましたw
 
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…すると、ワサワサと逃げてくサルの群れ!
事前情報を元にした計画的大胆行動ですw
広い本丸跡ですが、こりゃ盆前から草刈ってないな…。
 
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それでも本丸から二ノ郭に続く土橋と空堀や…
 
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二ノ郭の虎口と土塁がキレイに残っています
 
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西側の土塁は文字通り“盛った”感がありますが
 
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北側の切り崖の様にオタク満足度の高い遺構もあります
 
 
 事前にはゴルフ場の開発で殆ど消滅した…的な記事も見ましたが、ゴルフ場が有るのは隣りの尾根で、千種城はよく残っていました。
残念なのは民家がすぐ傍まで迫っていて、外側が殆ど見られない事。
そして、県の史跡の割には整備がされてない事です。
マムシなど居そうな環境なので、散策には皆さん十分に注意願います。
 
 
 
『金ヶ原城』
 次は千種城の支城と言われる金ヶ原城に向かいます。
向かうといっても、僅か500mほど下った尾根上にあり、こちらは千種氏を祀る千種神社の境内になっていました。
 
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金ヶ原城遠景
千種家の城らしく、田園地帯を見下ろしています
 
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城址の看板は無いので、ただただ神社を目指して行きます
 
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なかなか立派な構えの神社で、城址を示す看板などもありませんが…
 
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社殿の周囲は明らかに土塁が巻いています
 
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奥の本殿が一段高くなってるので、主郭跡と思われますが、神様のおわす領域には入れません
 
 
 結局は見れない部分が多くて、詳細は判りませんが、砦というよりは大規模で、最低でも三段構造の梯郭の縄張りが想像できました。
こうして、遠い昔にこの地に尽くした氏族が現代も祀られているのを見ると、なんだかホッとしますね。
次回も見たい風景です。
 
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城址から見える領地(北側)の様子 もちろん、平穏無事ですw
 
 
 
追記
『八風越えと千種越え』
 伊勢と近江、鈴鹿山脈を横断する峠道は、北から鞍掛峠・治田峠・石榑峠・八風峠・根ノ平峠・安楽峠・鈴鹿峠などがあります。
 鈴鹿峠は、他の峠よりはるかに低いため、人々の往来が多かったのですが、室町時代頃から、山賊の出没、合戦に伴う街道の荒廃、関所の設置と通行税の徴収などにより利用者が激減しました。
そして、特に商人の多くは、道は険しくても関所が少ない他の峠道を利用する様になったのです。

 

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『千種越え』へと続く朝明渓谷
 
 中でも、菰野町千種から根ノ平峠を越え現滋賀県永源寺町甲津畑までの「千種越え」と菰野町田光から八風峠を越え永源寺町杠葉尾までの「八風越え」とが特に多く利用されました。
「千種越え」は、近江と四日市、「八風越え」は近江と桑名を結ぶ重要な通商路で、近江の保内商人が通行権を独占していました。伊勢側の領主の千種家から両峠の流通独占権を認められ、その見返りとして役銭を支払っていた様です。
北勢48家の頭領的立場だった千草家の台所には、こうした資金源があったのです。

 

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朝明川の清流沿いに登る道
現在はクルマで越える道はありませんが、河原でのピクニックには最高ですw
子供連れてよく来たな。
 
 
 元亀元年(1570)5月、浅井長政の裏切りで越前から京に退却した織田信長は、岐阜に戻ろうと進軍しますが、江南の東海道は六角氏に封鎖されており、江北は浅井の領地のため帰路がありません。
 六角氏から帰順していた蒲生賢秀は自ら案内して“千種越え”で伊勢を目指します。
しかしそこには六角承禎の意を受けた杉谷善住坊の一党が刺客となって待ち受けていました。
 岩陰から4発の鉄砲が信長めがけて発射されましたが、1発が掠めただけで大事には至らず、信長は無事に帰還を果たします。
 
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地殻の隆起で出来た鈴鹿山脈は石材の産地でもあります。
関東の大名が羨む景色で、良質な花崗岩の巨岩が、文字通り“そこら中にゴロゴロ”していますw
 
 
 その場はうまく脱出したた杉谷善住坊ですが、後に近江で捕縛され、鋸引きの刑に処せられたそうです。
*杉谷善住坊は伊勢朝明郡杉谷村の住人(土豪)ですが、甲賀忍者として六角氏の諜報活動をしていた様です。