
こういった類の話ではありません。悪しからずw
県外の百名城が続いたので、また地元の三重県の城址に戻って、無名の城巡りも並行してやって行きます。
今回はその、とってもマイナーな話です。
三重県の過半は“伊勢国”という石高68万石の大国で、ここを治めた戦国大名は?…と言えば、南半分を元国司の北畠氏が占め、中央部には鎌倉御家人からの地頭職である長野氏と関氏が蟠踞する状況でした。
以上の三氏が“伊勢の戦国大名”と言える規模の氏族ですが、では残る伊勢北部はどうなっていたか?といえば。
以上の三氏が“伊勢の戦国大名”と言える規模の氏族ですが、では残る伊勢北部はどうなっていたか?といえば。

20万石強の限られた地域に数十もの氏族が割拠する異常な状態で、通称『北勢48家』と呼ばれています。
この状態は伊勢平氏が没落した平安末期から、鎌倉、室町、戦国時代と続き、織田信長の伊勢平定まで300年以上続きます。
この状態は伊勢平氏が没落した平安末期から、鎌倉、室町、戦国時代と続き、織田信長の伊勢平定まで300年以上続きます。
なぜこの様な状態が発生し、特定氏族による国内平定に至らず維持されたのか…?
そこにはどんな氏族のそれぞれの勃興のドラマがあったのか…?
なにせ地方の取るに足らない(失礼w)小豪族の事ですから、歴史学者さんも積極的には取り組まない様で、全体を網羅した良い資料にまだ出逢えていません。
中世の関東のゴチャゴチャの方がまだメジャー感もあり、よほど簡単だと思いますが、地元民としてはこれを避けては通れないテーマな気もするので、今回からこの『北勢48家』の城址・史跡を訪ねて、得られた情報から全てを紐付けして行くという、膨大な作業を開始したいと思います。
完了予定は…たぶん10年後かなぁ?www
まず、訪問対象とする城址と氏族の分布をまとめて見ました。
あくまでも一時候補で、訪城を重ねる間にどんどん増えて行くのは眼に見えてますがw
あくまでも一時候補で、訪城を重ねる間にどんどん増えて行くのは眼に見えてますがw

北勢48家と言われながら、53の家の存在が判っています。
つまり、“たくさん”という意味の48なんでしょうね。
この48家それぞれが違った出自を持ち、互いに小競り合いをしながら、時には連繋して大きな敵に向かいながら、戦国期を生きて行きます。
つまり、“たくさん”という意味の48なんでしょうね。
この48家それぞれが違った出自を持ち、互いに小競り合いをしながら、時には連繋して大きな敵に向かいながら、戦国期を生きて行きます。
こうした小規模鼎立が成り立った背景について、大雑把に触れておきます。
伊勢国は古来から伊勢神宮の荘園(御厨)が多く存在し、平安時代はその多くを伊勢平氏の一族が管理していました。
平清盛の父:忠盛が伊勢平氏の棟梁でした。
平清盛の父:忠盛が伊勢平氏の棟梁でした。
(大河ドラマ『清盛』では中井貴一さんが熱演してましたね)

平忠盛(大河ドラマより)
伊勢産品から身を起こした忠盛は、やがて京に登って後白河法皇に仕えて頭角を現して行き、“奢る平家”の基礎を築きました。 平氏の家系は数多あれど、平家(へいけ)と呼ばれたのは忠盛とその子孫だけなのです。
伊勢産品から身を起こした忠盛は、やがて京に登って後白河法皇に仕えて頭角を現して行き、“奢る平家”の基礎を築きました。 平氏の家系は数多あれど、平家(へいけ)と呼ばれたのは忠盛とその子孫だけなのです。
しかし、この時の吹石一恵ちゃんは綺麗でしたね!(そっちかw)
源平合戦の後、鎌倉幕府が成立しても、伊勢には関氏に代表される様に平氏の一族が多く残る土地柄でした。
鎌倉幕府は潜在的脅威として、平氏の勢力の削減を目的に、伊勢の各御厨の地頭に東国武士の御家人を積極的に送り込みましたが、彼らの殆どはやがて土着し、世相が荒れると各御厨を横領して国人領主となって行きます。
鎌倉幕府は潜在的脅威として、平氏の勢力の削減を目的に、伊勢の各御厨の地頭に東国武士の御家人を積極的に送り込みましたが、彼らの殆どはやがて土着し、世相が荒れると各御厨を横領して国人領主となって行きます。
その後の鎌倉幕府滅亡から南北朝の争乱を経て室町幕府安定に至る過程で、一部の国人領主は足利氏に敵対して没落する為、幕府は代わって守護大名の家人や在地の豪族に御厨の管理を託します。
つまり、中央集権をやり切れなかった室町幕府は結果として鎌倉期以来の“伊勢の御厨の環境”を踏襲したと言う事です。
また北勢には『十楽の津』とも言われる桑名湊があり、畿内と東国の物資が行き交い、自由市場でもあった桑名は堺や博多と同様にたいへん賑わう活気の溢れる場所でした。
そうした場所には大きな利権があり、商人の自治防衛意識も発達するので、そうした事を生業とする勢力も出来ました。

桑名の七里の渡し跡 古来から東西の物資の交易で賑わいました
「北勢48家」と一括りに言っても、この様に成り立ちは様々で、48家が一体となって活動していた訳ではありません。
*人気投票もジャンケン大会もありませんでしたw
*人気投票もジャンケン大会もありませんでしたw
それぞれの出自を分類すると、以下の様に大別する事が出来ます。
①チームH… 鎌倉御家人の地頭から生き残った領主
②チームK… 室町期の幕府や守護の意志で勢力を持った領主
③チームS… その他、伊勢国の環境から発生した領主
ここでやっと、冒頭の写真につながりましたねw
次回からはまず①チームHの氏族の居城を巡って行きます。