お盆の北陸遠征で“加賀藩100万石”の金沢城を訪れ、大大名の石高と地位、そして生き残り術に触れたので、今回は江戸時代の大名の石高を少し考察してみます。
石高とはその土地で採れる穀物の生産量の事で、大名に与えられる土地は広さではなく、収穫量の石高に換算して評価され付与されました。
石高の単位は文字通り石(こく)ですが、1石は人間一人が一年に食べる穀物の量で、米だと約100升(もしくは1000合)に相当します。
1石の収穫ができる田の広さは1反(たん)と定義されており、つまり、百万石だと百万人の生活ができる規模の土地…という事になります。
1石の収穫ができる田の広さは1反(たん)と定義されており、つまり、百万石だと百万人の生活ができる規模の土地…という事になります。
人間は食べて排泄して、ただ生きるだけの動物ではありませんから、食べたら働いて、いろんな付加価値を生み出します。
ですからその規模が大きいほど大きな経済力に繋がります。
その経済力から上がる税金(年貢)で生活する家臣(武士)も、その規模で雇用できる人数が決まりますから、藩の軍事力にも繋がります。
*1万石あたりの武士の数は戦国時代で300人、江戸時代だと200人が目安になります。
ですからその規模が大きいほど大きな経済力に繋がります。
その経済力から上がる税金(年貢)で生活する家臣(武士)も、その規模で雇用できる人数が決まりますから、藩の軍事力にも繋がります。
*1万石あたりの武士の数は戦国時代で300人、江戸時代だと200人が目安になります。
江戸時代の大名の石高を下に一覧にしました。
各大名は幕府(将軍)からそれぞれ実績に応じて石高で評価を受け、それに相当する領地を貰う訳ですが、領地は村単位で扱われます。
例えば
『越後 新発田藩 溝口伯耆守正直 越後蒲原郡のうち512ヶ村、陸奥信夫郡のうち8ヶ村 都合10万石を与える!』
という感じですね。
各大名は幕府(将軍)からそれぞれ実績に応じて石高で評価を受け、それに相当する領地を貰う訳ですが、領地は村単位で扱われます。
例えば
『越後 新発田藩 溝口伯耆守正直 越後蒲原郡のうち512ヶ村、陸奥信夫郡のうち8ヶ村 都合10万石を与える!』
という感じですね。
各村と収穫量は20年近く前に実施した“太閤検地”のデータが基準になりました。
検地結果による設定石高(表高)と実際の収量(実高)には多少なりとも差があった様ですが、太閤検地の奉行をしたのは石田三成ですから、徳川幕府もその正確性と信憑性には信頼を置いてた様ですねw。
検地結果による設定石高(表高)と実際の収量(実高)には多少なりとも差があった様ですが、太閤検地の奉行をしたのは石田三成ですから、徳川幕府もその正確性と信憑性には信頼を置いてた様ですねw。

徳川幕府開府初期の表高です。幕府の各大名に対する評価の値…といえます。
やはり金沢藩100万石は突出しており、目立ちますね。
幕府の主な狙いは、島津、伊達、黒田、浅野、毛利…と明らかに腹に一物を持つ外様雄藩の抑え込みにあり、
『幕府の意に添えば優遇されるよ…』あるいは、『100万石の前田家でさえこうなんだから、キミたち静かにしなさいよ…』という真意が見える気がします。
逆に幕府に不満も野心も無い前田家にとっては有り難迷惑な話で、“利用されてる”感もあって、外様大名の中では身の置き場に困った事でしょうね。
逆に幕府に不満も野心も無い前田家にとっては有り難迷惑な話で、“利用されてる”感もあって、外様大名の中では身の置き場に困った事でしょうね。
次に、このベスト10をもとに幕末(250年後)の石高変化を見てみましょう。
この間に対象の大名の加増/減封は基本的に有りませんから、250年の間の労働人口の増加や新田の開発、農業技術革新による収穫増、新たな産業の振興などが変化要素となります。
この間に対象の大名の加増/減封は基本的に有りませんから、250年の間の労働人口の増加や新田の開発、農業技術革新による収穫増、新たな産業の振興などが変化要素となります。

実高ですから、江戸時代を通して各藩の努力の数字ともいえます
軒並み収量は増加してますが、このバラツキ具合は凄まじいですね。
金沢藩の30%アップ134万石はやはり突出しており、これは城を飾るしかないでしょう…w。
金沢藩の30%アップ134万石はやはり突出しており、これは城を飾るしかないでしょう…w。
幕末に特に勢いがあり、倒幕を主導した西国の外様雄藩を“薩長土肥”と言います。
薩摩・長州・土佐・肥前の事なんですが、薩摩以外は何と2.5倍にも飛躍的に増やしていますね。
この背景にはそれぞれ歴史悲話が隠れているのです。
薩摩・長州・土佐・肥前の事なんですが、薩摩以外は何と2.5倍にも飛躍的に増やしていますね。
この背景にはそれぞれ歴史悲話が隠れているのです。
肥前佐賀藩
佐賀の領主は当初は竜造寺家でしたが、竜造寺隆信が戦死すると重臣の鍋島直茂が実権を握って竜造寺家を切り盛りします。
徳川体制では鍋島家が晴れて佐賀35万石の藩主になりますが、家臣団の実態は竜造寺家臣団であり、鍋島家の実入りは6万石程度しかありませんでした。
大藩ゆえに幕命の手伝いも多く、困窮した鍋島家は有明海の干拓などで積極増産を図りました。
また特産品の陶磁器や石炭採掘の振興と販路拡大を図って、莫大な利益を創出しています(石高換算による)。
佐賀藩はこの利益を元に、重工・造船など新たな産業開発に取り組み、 ペリー来航の前にはすでに大砲の製造技術も確立する程の革新的な藩でしたが、技術で先進するがゆえ、他藩との交流は制限され、閉鎖的な藩政だったそうです。
このため佐賀藩からは副島種臣、大隈重信、大木喬任、田中久重(東芝創業者)等、有能な産業人が輩出されますが、政治力に長けた人材は乏しく、強力な軍備と経済力を持ち、明治維新に貢献した割には主導できず、一般の評価は低いのが実情です。
佐賀の領主は当初は竜造寺家でしたが、竜造寺隆信が戦死すると重臣の鍋島直茂が実権を握って竜造寺家を切り盛りします。
徳川体制では鍋島家が晴れて佐賀35万石の藩主になりますが、家臣団の実態は竜造寺家臣団であり、鍋島家の実入りは6万石程度しかありませんでした。
大藩ゆえに幕命の手伝いも多く、困窮した鍋島家は有明海の干拓などで積極増産を図りました。
また特産品の陶磁器や石炭採掘の振興と販路拡大を図って、莫大な利益を創出しています(石高換算による)。
佐賀藩はこの利益を元に、重工・造船など新たな産業開発に取り組み、 ペリー来航の前にはすでに大砲の製造技術も確立する程の革新的な藩でしたが、技術で先進するがゆえ、他藩との交流は制限され、閉鎖的な藩政だったそうです。
このため佐賀藩からは副島種臣、大隈重信、大木喬任、田中久重(東芝創業者)等、有能な産業人が輩出されますが、政治力に長けた人材は乏しく、強力な軍備と経済力を持ち、明治維新に貢献した割には主導できず、一般の評価は低いのが実情です。
鹿児島藩(薩摩)
薩摩・大隅の二ヶ国73万石でスタートした薩摩藩ですが、シラス台地が殆どで耕作に向かない領内は、実高35万石と言われ、増産も進みません。
(日向、肥後、琉球と、歴代の島津家が拡張策を取らざるを得ない理由は、まさにここにあります)
しかし、腹に一物を持つ島津家は、元々多かった家臣をそのまま抱えた為、多くの藩士は“郷士”と呼ばれる半農の状態で領内に散らされ、武士とは名ばかりの塗炭の苦しみを味わいます。
薩摩・大隅の二ヶ国73万石でスタートした薩摩藩ですが、シラス台地が殆どで耕作に向かない領内は、実高35万石と言われ、増産も進みません。
(日向、肥後、琉球と、歴代の島津家が拡張策を取らざるを得ない理由は、まさにここにあります)
しかし、腹に一物を持つ島津家は、元々多かった家臣をそのまま抱えた為、多くの藩士は“郷士”と呼ばれる半農の状態で領内に散らされ、武士とは名ばかりの塗炭の苦しみを味わいます。
更に幕府の薩摩イジメも辛辣で、どんどん賦役を言い付けられます。

宝暦治水の悲劇
代表例は、木曽三川改修工事(宝暦治水)で、尾張藩領を流れる木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)を完全に仕切る事で、雨季の氾濫を防ぐ目的のものでした。
鹿児島からは千人ちかい藩士が動員され工事は始まりましたが、元々難工事な上、監視役の幕府役人の妨害が酷く、困難を極めます。
最後にはこの工事で安全と収穫を保証される地元農民ですら嫌がらせに加わる始末で、完成した時には使った予算は薩摩藩の収益にして2年分の巨額なものになっていました。
これにより、毎年の洪水は無くなり、米の収穫は15万石も増えたそうです。
鹿児島からは千人ちかい藩士が動員され工事は始まりましたが、元々難工事な上、監視役の幕府役人の妨害が酷く、困難を極めます。
最後にはこの工事で安全と収穫を保証される地元農民ですら嫌がらせに加わる始末で、完成した時には使った予算は薩摩藩の収益にして2年分の巨額なものになっていました。
これにより、毎年の洪水は無くなり、米の収穫は15万石も増えたそうです。
(尾張藩増加分の半分です)
完成して役人の検分を終えた責任者の家老:平田靱負はその旨を国許に書き送ると、幹部60名と共にその場で割腹して果てました。
藩に対する多大な財政出動の詫びと、執拗な妨害を重ねた幕府への抗議からだと言われます。
藩に対する多大な財政出動の詫びと、執拗な妨害を重ねた幕府への抗議からだと言われます。
こうして積み重なって行った薩摩人の徳川への想いは、桜島のマグマの様に蓄積され、幕末に大噴火を起こして幕府を吹き飛ばしてしまうのです。
萩藩(長州)
関ケ原の戦前の毛利家は中国6ケ国を支配する120万石の太守でした。
関ヶ原に際して、毛利輝元は石田三成の要請に応じて、西軍の総大将になりました。
他に家康に対抗できる規模の大名が居ない…という事情と、家中の推進派に口説かれて、輝元自身がチャンスと捉えたのだと思われます。
しかし、毛利の両川も二代目となり、毛利家内部は決して一枚岩ではなく、結局は消極的な戦法しか取れません。
輝元自身が出陣する事なく、毛利軍は推進派の毛利秀元と反対派の吉川広家が二人で率いて関ケ原に臨みます。
関ケ原の戦前の毛利家は中国6ケ国を支配する120万石の太守でした。
関ヶ原に際して、毛利輝元は石田三成の要請に応じて、西軍の総大将になりました。
他に家康に対抗できる規模の大名が居ない…という事情と、家中の推進派に口説かれて、輝元自身がチャンスと捉えたのだと思われます。
しかし、毛利の両川も二代目となり、毛利家内部は決して一枚岩ではなく、結局は消極的な戦法しか取れません。
輝元自身が出陣する事なく、毛利軍は推進派の毛利秀元と反対派の吉川広家が二人で率いて関ケ原に臨みます。

吉川広家画像
家康と密約を交わし、闘わずして裏切りで家を守ろうとした広家ですが、家運を賭けて命懸けで闘う諸将の手前、そうした武士にあるまじき行為に人心は厳しい事を見越していた家康にまんまと嵌められてしまいました。
そうした中、吉川広家は関ケ原後の毛利に明るい未来を見出せなかったのか、徳川家康との間で裏工作を行ない、“実戦に加わらない”事で毛利を守ろうとします。
結果は皆さんよくご存知の通りですが、近頃の大学生も思い付かない様な詐欺に遭い、毛利家は改易の危機に陥ってしまいます。
自分への評価の周防、長門2ヶ国37万石をさし出して毛利家を守った広家ですが、家中での居場所はありません。
しかし、ここまで追い込まれてやっと毛利はひとつに纏まります。
『徳川にいつの日か、必ず同じ思いを味合わせてやる…』
ここから毛利家を挙げての殖産事業が始まり、江戸末期には2.6倍の収穫を可能にしました。
吉川広家も、岩国2万石を領しましたが、最大12万石の石高を上げるまで頑張った様です。
肥前、薩摩、長州を取り上げましたが、こうした外様雄藩への幕府の度を超えた抑圧は、外様諸藩の中に徳川に対する敵愾心を持続・増殖させただけでなく、永続的な窮状がかえって打ち克つ体力を育ててしまったと言えますね。
一方で徳川家門の大藩は、永いぬるま湯体質の中で腐敗が進み、いつしか闘う気力も体力も喪失していました。
常陸水戸藩などは良い例で、幕初の石高を幕末の石高が下回る藩は他に例がありません。