日本百名城 №34  石川県  七尾城  登城日2015.08.09

 

 

 
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 城郭構造    連郭式山城
 天守構造    なし
 築城主      畠山満慶
 築城年       1428年 - 1429年(正長年間)
 主な改修者    畠山義綱、上杉謙信
 主な城主     畠山氏、上杉氏、前田氏
 廃城年       1589年(天正17年)
 遺構         郭、石垣、土塁、空堀
 指定文化財    国の史跡
 場所         石川県七尾市古城町
 
 
続いては能登の七尾城を訪ねました。
 
 七尾城は前田利家の初期の城…という認識を持っていたのですが、これは大きな間違いで、長い事能登に君臨した能登畠山氏の居城というのが圧倒的に正しい様です。
勝手な思い込みでした。
 
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埼玉県 菅谷城址に建つ畠山重忠像
 
 
 畠山氏とは、みなさん良く御存知の“畠山重忠”の畠山ですね。
畠山氏は平氏の秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡を領していましたが、重忠の時、源平合戦で源頼朝に付いて戦功を上げ、鎌倉幕府の有力御家人になりました。

  鎌倉で北条時政との主導権争いに敗れた重忠は、その後の戦いで敗死し、畠山氏は絶えるのですが、重忠の妻は北条時政の娘(=北条政子の妹)であった事から、重忠の旧領を手土産に御家人:足利義純に再嫁します。
 義純は足利氏の嫡流ではなかったので、名門:畠山を名乗る事になり、畠山の家名は源氏で続く事になります。

 

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七尾城復元画像  多少脚色はあるものの、山上に連郭で広がる大規模な城です
 
 
 鎌倉幕府に続き室町幕府を開く足利氏の一門が畠山氏を継承した事で、畠山氏は永く幕府の中枢で活躍する事となり、一族は陸奥、越中、河内、紀伊、能登の守護を務めて、最盛期には細川、山名に匹敵する勢力を誇りました。
 
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本丸から見る七尾市街と能登の海
 
 
 能登を治めた畠山氏の初代は将軍:足利義満の信頼の篤い畠山基国の子:満慶でした。
満慶と次代の義忠は京に居て、領国は家臣の遊佐氏に委ねていましたが、応仁の乱の荒廃を契機に能登に本拠を移して、領国の支配体制を確立します。

 3代当主・畠山義統は砦程度の規模だった居城の七尾城を強固な山城に改造し、他国の畠山一族が“下剋上”の波に呑まれて没落して行く中、能登畠山氏は戦国時代後期まで150年間、支配体制を維持しました。
 特に7代当主:義総の頃には全盛期を迎え、七尾は小京都の賑わいだったそうです。
 
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七尾城主:畠山義総画像  はい、私が畠山義総ですが……何か?
 
七尾出身の絵師:長谷川等伯画と伝わる画像 等伯の家は畠山氏の家臣でした。
長い事『武田信玄』と言われ勝頼が高野山に奉納したと伝わるこの画像ですが、この頃の等伯に信玄との接点はなく(晩年の信玄を描くほど有名ではなかったし)、実は畠山氏の当主である事は間違いない様です。
本当に義総であるかはまだ不明ですが、風貌から支配者の強いカリスマ性が感じられます。
(武田信玄で通用してたんですからねw)
ここは独断で義総の想像画ではないかと思うのです。
 
  しかし8代当主:義続が家督を継ぐ頃から家臣間の対立が顕在化し、収拾できない当主は家臣の力関係でコロコロ替わります。
そんな弱点を見透かされてか、天正5年(1577年)には上杉謙信の侵攻を受け、あえなく滅亡してしまいました。

 

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本丸跡に建つ城址碑
 
 
   一度は上杉領となった七尾城ですが、翌年に謙信が没すると上杉家でも内乱が起き、その隙に能登には織田勢が侵攻し、越中西部まで支配下に収めてしまいます。
   信長は能登23万石を配下の前田利家に与え、利家は一旦は七尾城に入りますが、すぐに海岸に近い平地に新城:小手山城を築城し、能登の支配拠点として移って行きました。

 七尾城は完成された堅固な山城でしたが、標高300mの山上のため支配拠点には適さず、物流と城下の発展性を加味した選択だと言われています。
1589年(天正17年)、これをもって七尾城は廃城となりました。

 

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唯一、利家の遺構と断定できる石積み
こうした巨石を用いて虎口を形成するなど、工法はおろか安土城築城に携わった者にしか発想できないモノだと思います。
 
 
 
七尾城を歩く
 氷見で宿泊して、輪島周辺を観光した後、午後に七尾に到着しました。
20年以上ぶりの能登路ですが、自動車道が縦横に走ってて、数倍便利になってましたw
 七尾城へは能越自動車道の“七尾城山IC”で降りて向かいます。
判りやすいですw
 
 七尾城は比高差のある山城ですが、本丸のすぐ近くに駐車場が整備されてて、10分弱のドライブで着きます。

 

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駐車場から主郭へのアプローチ
歩道には木のチップが敷かれてて、ベントのフェアウェーみたいにフカフカです
 
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最初の郭『調度丸』 奥には有名な石垣が見えてます
 
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調度丸には麓からの大手道が繫がっていて、虎口があります。
麓から運ばれる物資が一旦保管された場所なのかな
 
 
 駐車場にはボランティアガイドさんの詰め所があって、たくさんのガイドさんが居ました。
到着したのが4時頃だったので、もう頼めませんでしたが、戻ってくる観光客には殆どガイドさんが付いていました。 もちろん無料。
 
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本丸へと続くスロープ  階段にせずスロープにしたのは、騎乗のまま登る為かな?
 
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やはり初期の石垣なので、複数段に分けて積み上げています
 
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本丸虎口です
 
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本丸壇上は300坪程度、あまり大きな御殿を構えられる広さではありません
奥の土壇は天守台? もしくは物見櫓台か
 
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井戸跡と思われる窪み
 
 
 本丸周辺はかなり石垣が多用され、見応えがあります。
前田利家の改変は? とも思ったのですが、それにしては古い技術で積まれているので、畠山氏の仕事でしょうね。
そうだとすれば、当時としては最先端の城の構えであったと言えます。
 
続いて二ノ丸、三ノ丸に向かいます。
 
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本丸下は遊佐屋敷跡から桜の馬場へと、まとまった平場が続きます。
城代:遊佐氏の屋敷はともかく、こんな高所に馬場があったかは不明
 
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温井屋敷から見る二ノ丸
続いた郭なので、温井氏の担当曲輪だったのか?
段々に石垣が積まれ、独立性の高い郭です
 
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二ノ丸壇上はかなりな広さ
 
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三ノ丸との間は深い堀切で隔てられています。この深さは半端ない!
 
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三ノ丸壇上はさらに広く、大手道を直上から見下ろす重様な郭です。 ここも独立性が高い。
 
 
 ここまでが主要な郭ですが、小郭はまだまだイッパイあります。
本気で見るには一日で足りるかどうか…w
 
陽も傾いて来たので、ここで撤収とします。
ホントは高岡城も覗いておきたかったのですが、今回の北陸遠征はこれにて終了です。