金沢城…後半です。
 
金沢城を歩く
 
 金沢城は今までと違って、都市の中心部にある城です。
兼六園の北側にある『石川兼六駐車場』にクルマを停めてスタートします。
もともと有名な観光地な上、今年からは北陸新幹線が開通して、たくさんの観光客が路上に溢れていますが、幸いここは殆どが日本人ですねw
 
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旧百間堀(今は道路)に掛かる石川橋を渡ると石川門です。 
昔(といっても30年前)の金沢城といえば、ここの景色でしたw
 
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高麗門を潜ると
 
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すぐ右手に渡り櫓門  枡形の広さは150坪くらいかな。百万石の太守にしては、かなり小ぶりです。
 
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しかし、壁の下半分に瓦板を貼り付けた“海鼠壁”、これが金沢城の特徴なんですが、やけに豪華な印象で、宮殿っぽさを演出しています。
 
 
 石川門を入ると三ノ丸になります。
当時は重臣屋敷などがあった場所ですが、武者溜まりの広場が大半を占めていた様ですね。

 

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三ノ丸から新丸へと続く河北門  平成25年の復元です
 
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三ノ丸広場
向こうに見えるのは平成13年復元の二ノ丸櫓群。左から、橋爪門、橋爪門続櫓、五十間長屋、菱櫓 金沢城の新しい顔です
 
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菱櫓と五十間長屋  お洒落な唐破風の石落しが付いて、やはり御殿建築ですね。
 
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橋爪門と続櫓  手前に狭い水堀があり、木橋が掛かります。
 
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その水堀  梯子が届きそうな堀に、防御上なんか意味が有るんだろうか?…と思いますが。そう、意味が有ってはいけないのです。
 
 
 橋爪門を入ると二ノ丸です。
藩政を司る表向きと藩主の日常の御殿があった場所で、本丸が放棄されてた江戸期の金沢城では、中心になる場所です。

 

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橋爪門内に並ぶ銃眼 戦時の備えも一応ある様です。…ん? 外から鉄砲挟間が見えてたっけ???
 
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と思って再度表を見てみると、これです。
内側から鉄砲の筒先でツンツンすると、瓦板がポロリと落ちて、銃眼が開くんですね。
 
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橋爪門の続櫓と渡り櫓門  ここの枡形も小さいです
 
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櫓台の石垣  別にヤバイ物が写っててモザイク掛けた訳ではありません。
金沢城の最終段階の石垣はこのレベルなのです。これ以上となると、墓石みたい磨くしかないでしょう。
 
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二ノ丸内から見た菱櫓と五十間長屋
内部の庭園をも少し整備しないと、長野あたりにある道の駅に見えてしまいますねw
 
 
 ここまで見ての印象は、城郭というよりは御殿です。
聚楽第が残ってたなら、こんな感じではなかったろうか…?
質実剛健の対極にある、繊細優美の世界ですね。
下世話な表現ですが、坪単価の高い“住友林業的な”城という印象ですね。
 
 二ノ丸の奥には本丸があります。
江戸期には意思を持って使われなかった様ですが、こちらも見て廻ります。

 

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二ノ丸と本丸を隔てる空堀  普通に“お城”です
 
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本丸跡に建つ三十間長屋
 
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荒れ果てた本丸跡ですが、こうした戦時用の溜め池が残されています
 
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本丸に登る東丸門跡  変わった枡形です
 
 悪ガキ達が悪戯をすると、身体の一番大きい子が主犯格と見られてしまいます。
加賀藩前田家の場合も似た様なもので、幕府を牛耳る石高5~10万石の譜代大名にとっては百万石の大藩は、格好の標的だったでしょう。
 例えば薩摩の島津家や仙台の伊達家もそうした対象ではあったでしょうが、彼等は徳川の家来の小大名とは別格の実績がある、胆の座った戦国大名の“格”が無言の壁となっています。
仙台城が、戦時の高い防御力を維持してるのはその為でしょう。
 
 前田家が元戦国大名として本当に実力通りの石高かと言えば、利家にさえさしたる戦功はなく、多分に“運”があると思います。
そうした事を理解してる前田家は、対抗能力を敢えて低く抑えて、徳川臣下に徹する事で家の保全を図って行ったのだと思います。
 
 江戸期の外様の城には概ねそんな傾向が見られます。
外様と言えども家臣には変わりなく、立派な城を維持していれば、国防上もその地方の拠点として有効に機能します。
本来、武家政権とはそうした考え方をするものだと思うのですが…。
戦うお城ファンとしては、残念な代表の金沢城でした。