日本百名城 №35 石川県 金沢城 登城日2015.08.08

城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 不明(1592年築非現存)
築城主 佐久間盛政
築城年 天正8年(1580年)
主な改修者 前田利家・利長
主な城主 佐久間氏、前田氏
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 長屋・門、石垣、土塁、堀
指定文化財 国の重要文化財(石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫)、史跡
再建造物 菱櫓・橋詰門・橋詰門続櫓・五十間長屋
所在地 石川県金沢市丸の内
天守構造 不明(1592年築非現存)
築城主 佐久間盛政
築城年 天正8年(1580年)
主な改修者 前田利家・利長
主な城主 佐久間氏、前田氏
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 長屋・門、石垣、土塁、堀
指定文化財 国の重要文化財(石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫)、史跡
再建造物 菱櫓・橋詰門・橋詰門続櫓・五十間長屋
所在地 石川県金沢市丸の内
北陸4城目は石川県金沢市の金沢城です。
金沢平野の中央を流れる犀川と浅野川に挟まれた細長い台地に築かれた平山城です。
金沢城の前身は浄土真宗の道場“尾山御坊”がその始まりで、室町中期の加賀は富樫氏が守護を務めていましたが、家中に内紛が絶えず、国人や民衆は次第に宗教に拠り所を求める様になって、“一向宗”として団結します。
やがてその勢いは守護家をもしのぐ様になり、16世紀初頭には加賀は宗教国家の様相を呈す全国でも珍しい国でした。
やがてその勢いは守護家をもしのぐ様になり、16世紀初頭には加賀は宗教国家の様相を呈す全国でも珍しい国でした。

金沢城縄張り図 さすがに結構な広さの城ですが、さして高低差も無いのに、堀が貧弱な気がします。
百万石の大名を攻める相手が居なかったからか?戦う城として見たら、かなり物足りない…。
天下布武を目指す織田信長は天正8年(1580年)、やっと加賀での一向一揆を鎮圧します。
信長の家臣で、柴田勝家の与力だった佐久間盛政は加賀の北半国を与えられ、尾山御坊跡に“尾山城”を築いて居城としたのが城としての始まりです。
信長の家臣で、柴田勝家の与力だった佐久間盛政は加賀の北半国を与えられ、尾山御坊跡に“尾山城”を築いて居城としたのが城としての始まりです。
盛政はその後も勝家と行動を共にしたため、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで敗死してしまい、尾山城は盛政領を加増された前田利家に与えられます。

本丸西端の高石垣
猛将:又左衛門利家を感じるとしたら、この石垣。 4段に分けて高く積まれています

上から覗くと戦国の匂いがしますw
利家は能登23万石の国主で、七尾の小手丸城を居城としていましたが、天下統一となった機により京阪に近い尾山城に移り、天正15年(1587年)からは改易された高山右近を雇って城の大改修を敢行し、名も金沢城としました。
本丸には五層の天守が建てられましたが、慶長7年(1602年)落雷で焼失すると、幕府への遠慮から再建はされませんでした。
利家はその後は旧知の秀吉を補佐する形で豊臣政権の重鎮となりますが、慶長4年(1599年)、秀吉死去の8ヶ月後に病没します。

本丸石垣には古さが残ります
この打ち込み接ぎが最古か? 江戸期の本丸は放棄されてた様です

本丸周辺には、雰囲気が残っていますね

昔ながらの土塁跡
跡を継いだ嫡子:利長は、今度は徳川家康に近い路線に切り替えて、その後の関ケ原の戦や大坂の陣を乗り切り、最大時は120万石の所領を持つ、徳川政権下で最大の大名となりました。
三代利常が二男と三男に富山10万石と大聖寺7万石を分与したものの、それでも102万5千石と最大の藩に変わりはなく、“加賀百万石”と称されました。

残存遺構の石川門にも一部古い石垣が残ります
豊臣系の外様雄藩が次々に改易され、前田家もしばしばそのターゲットになりましたが、利常以降の藩主も親徳川路線を継承し、徳川家との縁戚を積極的に進め、豊臣色を殊更薄める事でついには強い信頼を勝ち取り、減俸にも国替えにも遭う事もなく14代を金沢で連綿と繋いで、明治維新を迎えます。
最後は外様ながらも、徳川に同化して、江戸城中では御三家と同一の扱いだったそうです。
最後は外様ながらも、徳川に同化して、江戸城中では御三家と同一の扱いだったそうです。

同じく残存遺構の三十間長屋 平地に座っているので、多聞櫓ではありません
幕末の戊辰騒乱に際しては、佐幕を基調としながらも、大藩ゆえに国論の統一も難しく、遂に先頭に立つ事はなく、時代の趨勢をすべて受け容れる形で維新を迎えます。
廃城後の金沢城には陸軍第9師団司令部が入りますが、明治14年(1881年)には失火により、現存する幾つかの遺構を残して大半の建物を焼失する大火に見舞われています。
また、戦後の軍の解体後は金沢大学が置かれ、大きく改変されてしまいました。
また、戦後の軍の解体後は金沢大学が置かれ、大きく改変されてしまいました。

三つ目の残存遺構の鶴丸倉庫 城郭内の土蔵建築としては日本一の面積だそうです
平成7年(1995年)大学が郊外に移転すると、跡地は石川県が取得して、『金沢城址公園』として整備され、やっと見学できる様になりました。
近年は遺構の復元整備もどんどん進められて、“百万石の城”の面影を取り戻しつつあります。
近年は遺構の復元整備もどんどん進められて、“百万石の城”の面影を取り戻しつつあります。

隣接する“兼六園”
広く、植栽の美しい回遊式庭園ですが、ここには城砦機能はなかった様です
つづく
次回は復元建物を中心に見て行きます