日本百名城 №36  福井県  丸岡城  登城日2015.08.08
 
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 別名        霞ヶ城
 城郭構造     連郭式平山城
 天守構造    独立式望楼型 2重3階(建造年不明 木造 現存)
 築城主       柴田勝豊
 築城年      天正4年(1576年)
 主な城主    本多氏、有馬氏
 廃城年      明治4年(1871年)
 遺構        現存天守、移築門、石垣
 指定文化財   重要文化財(天守)
 場所        福井県坂井市丸岡町霞
 
 
続いては福井市の北隣り、坂井市にある丸岡城を訪ねました。
 
 朝倉氏の滅亡した越前国は織田家重臣の柴田勝家に与えられます。
勝家は本拠地を朝倉氏の一乗谷ではなく、平地が拓けて水運の便の良い北ノ庄(現在の福井駅前)に置き、国内の要地にも家臣を配していきます。
丸岡には甥で養子の柴田勝豊が4万5千石で配置されました。

 

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丸岡城模型   とても広い内堀は鉄砲の時代の城の特徴です
 
 
 1576年(天正4年)、勝豊は丸岡の東の小高い丘に新たに築城し、拠点としましたが、1582年(天正10年)の本能寺の変に伴う清須会議の結果で、近江長浜城を与えられ、丸岡城は城代支配となります。
 
 翌1583年(天正11年) 、柴田勝家が羽柴秀吉に滅ぼされると、越前は丹羽長秀に与えられ、丸岡城には家臣の青山宗勝が入ります。

 

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虚飾を排した実用本位の姿は、かえって機能美を感じさせます
 
 
 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦い後、越前には結城秀康が入り、丸岡城には家臣の今村盛次が配され、福井城の支城の役割を果たして行きますが、後に福井藩の附家老として入っていた本多成重(4万3千石)は1624年(寛永元年)、秀康の子:忠長が改易になると、そのまま独立大名となり、丸岡藩が立藩します。
 
 この本多成重は“鬼作左”こと本多重次の長男で、よく出てくる本多平八郎忠勝とは五代遡る一族です。
丸岡藩本多家は4代続きますが、1695年(元禄8年)にお家騒動で改易になり、代わって越後糸魚川から有馬清純が5万石で入封し、有馬家は6代続いて明治維新を迎えました。

 

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急造の為か、いろんな石材が使われています
 
 
 廃城とされた丸岡城はすべて破却されるところでしたが、天守だけは地元丸岡町の強い要望で残され、町は天守を中心に城址を公園に整備して大切に保存し、1934年(昭和9年)に天守は旧国宝にも認定されています。

  その天守も1948年(昭和23年)の福井地震では倒壊する損害に見舞われました。
しかし、丸岡町(現坂井市)は崩れた部材を可能な限り使用して、元の天守を忠実に組み上げて現在に至っています。

 

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最上階大屋根の骨組み
 
 
 
丸岡城を歩く
 北陸道を丸岡ICで降りて北上すると、5分足らずで丸岡城のある霞城公園に到着します。
インターを降りる時点で、もう左前方に天守が見えており、迷う事は有りません。
公園内にある“一筆啓上茶屋”にクルマを停めて散策します。
 
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一筆啓上茶屋と背後は天守
 
 
 丸岡城は現存12天守のひとつで、城好きがホンモノを見る価値はもちろん有るのですが、日本百名城のスタンプ集めくらいの軽さで訪れると、落胆する部分も少なくありません。
 
  天守は、特に外観は戦国の匂いがプンプンする武骨な姿で、個人的には好きな意匠ですが、周囲の環境は開発の波に飲み込まれて、見るべき所が格段に少なく、天守の足を引っ張っていますね。
 坂井市もそうした事を理解してか、平成5年から“世界一短い手紙コンテスト”を続けてて、これはこれで面白い企画だとは思うのですが、丸岡城に直接関わった人の逸話ではありません。

 

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本丸石垣は野面に積まれ、建造された時代を語り掛けています
 
 天守は、内部も含め実用本位のいかにも戦国の城らしい造りで、江戸期にも小藩が維持して来た事がそこかしこに見られます。
しかし、国宝五城の天守と見比べれば明らかに見劣りしてしまいます。
例えば、柱や梁に巨木を使い、槍鉋で仕上げてあるかと言えばそうではありません。
  ただ国宝五城を殿様の城として、『では当時の重臣の城はどうだったの?』…的な見方をすれば、良いモノを見れた満足感は確実に得られると思いますよ。

 

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天守最上階 部材は全部台鉋で仕上げられています
 
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瓦は地元特産の石が使われています
 
 
 
最後に、久々に余談をひとつ。
 
鬼作左:本多重次
 
『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ』
 
 これは本多重次が長篠の戦の陣中から妻に宛てた手紙で、要点を簡潔に愛情深く書いてある事から、後に武士の手紙の手本と言われました。
 本多重次とは、前に書いた様に丸岡藩初代藩主:本多成重の父で、文中のお仙=仙千代=成重の幼名です。
これを元に坂井市が“世界一短い手紙コンテスト”を続けているのですが、それはさて置き、この本多作左衛門重次という人物がまた、とんでもなく面白い、徳川の名物男だったので、ここで紹介します。
 
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浜松城縄張り図
本丸の上(西)に作左曲輪というのが見えます  家康は重次に命じてここに出城を築かせ、守らせました
 
 
 本多重次は、その清廉潔癖な性格が家康に好かれ、徳川家の奉行として行政に手腕を発揮し重用されます。
 法に対しては特に厳格で、自分が守るだけでなく、法を疎かにしたり、理に合わない言論には、それが誰であろうと遠慮なく叱責したそうです。
家康もしょっちゅう叱られてた様ですね。 
 
 また武勇にも秀でており、徳川の歴戦には必ず参加して前線で白兵戦を演じたため負傷も絶えず、初老の頃には片目片足で、手の指は何本も欠損していたそうです。
 そんな風体でガミガミやるから、“鬼作左”と煙たがられながらも、誰もが一目置く存在で、家康の信頼は高かった様です。
 
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大河ドラマ『徳川家康』では長門裕之さんが演じてましたね
 
 
 しかし、家康が秀吉に降って、臣下となると事情は変わって来ます。
秀吉だからと言って使い分けできる重次ではありませんから、秀吉にも同じ様にやってしまいます…。
 秀吉の母:大政所が家康に預けられていた時、世話役となった重次は、人質の常として、家康が秀吉の元に上洛してる間は、大政所の部屋の周りに焚き木を積み上げ、有事の時にはいつでも焼き殺せる準備をしていたそうです。
 
 後日『どえりゃ~おっとろしかっただなも…』と大政所から聞かされた秀吉は激怒します。
天下人として何でも許され、特別である事を望む秀吉は、家康に対して『重次なんちゅう無礼もんはすぐに追放してちょう!』と強い命令がなされた様です。
 
 これには如何ともし難く、家康は秀吉存命の間は3千石を給して下総国(茨城県取手市)で蟄居させる事にしましたが、重次は秀吉が死ぬ2年前の文禄5年(1596年)7月、68歳で家康に捧げた人生を終えました。

 しかし本多家とは…誠に人材に事欠かない家ですね。
 
 
*手紙の原文は『一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく』 だそうです