一乗谷城のつづきです
天文17年(1548年)、朝倉氏10代当主:孝景(宗淳)が死去し、当主の座は嫡子:義景が継ぎます。
まだ15歳の若当主には、一族の朝倉宗滴が付き政務を補佐するのですが、その頼みの宗滴も7年後の1555年には齢78で死去してしまいます。
まだ15歳の若当主には、一族の朝倉宗滴が付き政務を補佐するのですが、その頼みの宗滴も7年後の1555年には齢78で死去してしまいます。
この時から義景自から政務を執ったと言われます。

発掘調査を元にして当時の武家屋敷街が一部復元されてます

そのうちの一軒を覗いて見ます
この頃、京では異変が起こります。
永禄8年(1565年)5月、将軍:足利義輝が松永久秀と三好三人衆により殺害されるクーデターが起きたのです。
久秀らはすぐに傀儡の義栄を将軍に立て、足利将軍家は続くのですが、これを良しとしない細川藤孝ら幕臣は、奈良で仏門にあった義輝の弟:覚慶を還俗させ、義昭と改名して一乗谷の義景を頼りました。
義景は義昭を歓待するも、上洛戦で久秀らを追い払う…という義昭の望みに応える事は無く、落胆した義昭は美濃の織田信長を頼って一乗谷を去ります。
これが最初のチャンスでした。
永禄8年(1565年)5月、将軍:足利義輝が松永久秀と三好三人衆により殺害されるクーデターが起きたのです。
久秀らはすぐに傀儡の義栄を将軍に立て、足利将軍家は続くのですが、これを良しとしない細川藤孝ら幕臣は、奈良で仏門にあった義輝の弟:覚慶を還俗させ、義昭と改名して一乗谷の義景を頼りました。
義景は義昭を歓待するも、上洛戦で久秀らを追い払う…という義昭の望みに応える事は無く、落胆した義昭は美濃の織田信長を頼って一乗谷を去ります。
これが最初のチャンスでした。

上級武士の館と思われますが、小さな建物が数棟あるだけで、意外と質素です
足利将軍にとって、朝倉氏は相変わらず最初に頼る戦国大名であり、言わば管領職(将軍の代行)の期待がありました。
朝倉氏も動員兵力は3万を誇り、そんな立場で周囲の国人を糾合すれば、5万の動員も可能だった筈で、松永、三好、六角、京極などものの数ではありません。
義景は最初のチャンスをものの見事にスルーしてしまいました。
朝倉氏も動員兵力は3万を誇り、そんな立場で周囲の国人を糾合すれば、5万の動員も可能だった筈で、松永、三好、六角、京極などものの数ではありません。
義景は最初のチャンスをものの見事にスルーしてしまいました。

主人は居間で将棋に熱中 すでに畳敷きなのはちょっと驚きです

厨房では膳の用意が進んでいます
次のチャンスは3年後の永禄11年(1568年)9月にやって来ます。
足利義昭は織田信長の力で上洛を果たし、将軍の座につきますが、信長との相性は最悪で、反目していました。
信長は義昭の精神的な支えは朝倉氏にあると見て、難癖をつけて朝倉討伐の軍を起こします。
足利義昭は織田信長の力で上洛を果たし、将軍の座につきますが、信長との相性は最悪で、反目していました。
信長は義昭の精神的な支えは朝倉氏にあると見て、難癖をつけて朝倉討伐の軍を起こします。
3万の兵で越前に侵攻した信長ですが、金ヶ崎城を落とした所で浅井長政の裏切りが発覚し、急遽撤退して行き、事なきを得ました。
この時の義景の動きですが、自らは浅水(福井市内)まで出張っただけで、すぐに一乗谷に戻っています。
それなりの決戦の構えで金ヶ崎まで押し寄せていれば、追撃戦で大きな戦果も可能でしたが、疑問の大きい行動です。
一説によると、この頃から義景は、政務も軍事も一族の朝倉景鏡や朝倉景健に任す事が多くなり、遊興に耽っていたとも言われます。

この様に、発掘された屋敷跡が辺り一面に広がって保存されています
一乗谷の平地はすべて家屋敷で埋め尽くされてたそうですから、人口密度は凄かったでしょうね

近年まで水田として使われてた様ですが、石がイッパイ出てくる耕作しにくい土地だったそうです。
そりゃそうだw
仏の顔も三度までと言う様に、義景に三度目のチャンスが訪れるのは、元亀元年(1570年)6月の事でした。
朝倉・浅井連合軍と織田・徳川連合軍は近江国姉川で激突します。
家の存亡を賭けた浅井長政の奮戦で一進一退の激戦となりましたが、互いに死力を尽くした戦いの筈が、朝倉氏が投入した戦力は僅か8千で、しかも総大将は朝倉景健という手の抜きっぷりです。
案の定、朝倉軍が徳川軍に破れ潰走した事で勝負は決まり、浅井氏に大きな損耗を強いてしまいました。
朝倉・浅井連合軍と織田・徳川連合軍は近江国姉川で激突します。
家の存亡を賭けた浅井長政の奮戦で一進一退の激戦となりましたが、互いに死力を尽くした戦いの筈が、朝倉氏が投入した戦力は僅か8千で、しかも総大将は朝倉景健という手の抜きっぷりです。
案の定、朝倉軍が徳川軍に破れ潰走した事で勝負は決まり、浅井氏に大きな損耗を強いてしまいました。

この山上に詰め城の一乗谷城がありますが、戦いに使われた事は一度もありませんでした
仏敵:信長が相手の戦いだからか、仏様も大サービスで、四度目のチャンスを義景に与えます。
同年8月、信長が三好と本願寺討伐のため摂津まで出兵すると、その隙を衝いて義景は南近江まで進出します。
さすがに“姉川の戦”で懲りたのか、重臣から苦言があったのか、今度は義景が自ら3万の兵を率いての出陣です。
信長の弟:信治と重臣の森可成が守る宇佐山城を攻めた朝倉軍は、両名を敗死に追い込むと、9月には山科まで進攻し入洛目前になります。
義景さん、やれば出来るじゃん!
同年8月、信長が三好と本願寺討伐のため摂津まで出兵すると、その隙を衝いて義景は南近江まで進出します。
さすがに“姉川の戦”で懲りたのか、重臣から苦言があったのか、今度は義景が自ら3万の兵を率いての出陣です。
信長の弟:信治と重臣の森可成が守る宇佐山城を攻めた朝倉軍は、両名を敗死に追い込むと、9月には山科まで進攻し入洛目前になります。
義景さん、やれば出来るじゃん!
しかし、危急の事態に信長が引き返して来ると、互角の大軍を擁しながらもなぜか比叡山に立て篭もり、決戦を避けてしまいます。
この時は将軍:義昭の調停で和睦となりますが、朝倉に味方し、隠れ家を提供した比叡山は翌年、信長によって焼き討ちされてしまい、義景は信長の戦いの厳しさを思い知らされます。
この時は将軍:義昭の調停で和睦となりますが、朝倉に味方し、隠れ家を提供した比叡山は翌年、信長によって焼き討ちされてしまい、義景は信長の戦いの厳しさを思い知らされます。

城山の麓には朝倉氏館跡があります
三方を低い土塁で囲い、狭い水堀を配した縄張りは中世居館そのものですね

大手の部分にある唐門 後に建てられた朝倉氏の菩提を弔う寺の遺構だそうです
そして最後のチャンスは元亀3年(1572年)10月に訪れました。
かねてから反信長の大名のネットワーク造りに励んでいた将軍:義昭は、本願寺顕如をこれに加える事に成功し、強大な包囲網を完成させます。
あとは当てにならない朝倉に代わり、誰が先頭に立って信長と対決するか…ですが、これに乗っかったのが武田信玄でした。
戦国最強軍団の西上作戦が始まり、予想通りに徳川家康の領地をいとも簡単に蹂躙して西上して来ます。
かねてから反信長の大名のネットワーク造りに励んでいた将軍:義昭は、本願寺顕如をこれに加える事に成功し、強大な包囲網を完成させます。
あとは当てにならない朝倉に代わり、誰が先頭に立って信長と対決するか…ですが、これに乗っかったのが武田信玄でした。
戦国最強軍団の西上作戦が始まり、予想通りに徳川家康の領地をいとも簡単に蹂躙して西上して来ます。

館内にある庭園 会所跡の東隣にあり、義景はここで行われる茶の湯や能楽、連歌の会を最上の生き甲斐としてたのかも知れませんね
義景もこの戦略に呼応して北近江まで出陣していました。
この時の信長の兵力は7万ほどでしたが、本願寺攻囲と対毛利に4万は必要で、これに朝倉対応が加われば武田に当てる兵力はありません。
義景といえども、この時の対応は簡単で、北近江に居座り、信長の兵站を脅かすだけで良いのです。
出てきた織田軍と小競り合いをしながら釘付けにし、もし織田軍が三河に向け動いたなら、岐阜を狙う構えを見せればもう信長は動けず、家康も信玄に降伏するしかなくなり、信長は自滅を待つしかないのです。
信長の生涯最大のピンチはここだと思うのですが、ここでとんでもない救世主が現れて信長を助けます。
この時の信長の兵力は7万ほどでしたが、本願寺攻囲と対毛利に4万は必要で、これに朝倉対応が加われば武田に当てる兵力はありません。
義景といえども、この時の対応は簡単で、北近江に居座り、信長の兵站を脅かすだけで良いのです。
出てきた織田軍と小競り合いをしながら釘付けにし、もし織田軍が三河に向け動いたなら、岐阜を狙う構えを見せればもう信長は動けず、家康も信玄に降伏するしかなくなり、信長は自滅を待つしかないのです。
信長の生涯最大のピンチはここだと思うのですが、ここでとんでもない救世主が現れて信長を助けます。

同じく、館内にある義景の墓所 領民には、どんな殿様だったのでしょうか?
暮れも押し詰まった12月、朝倉義景は突如として戦線を放棄して一乗谷に引き上げてしまいました。
理由は『近江の冬は寒く、兵も疲れているから…』だそうです。
これを聞いた信玄はあまりの愚かさに激怒しますが、戦略の練り直しが必要になり、いたずらに時間を費やして自らの寿命を終わらせてしまいます。
理由は『近江の冬は寒く、兵も疲れているから…』だそうです。
これを聞いた信玄はあまりの愚かさに激怒しますが、戦略の練り直しが必要になり、いたずらに時間を費やして自らの寿命を終わらせてしまいます。

朝倉義景画像
輪郭は7代:孝景とも似てますが、何より戦国大名特有の剝き身の日本刀みたいな危険な匂いがしません。
現実と向き合う事を避け、逃避した先の妄想の世界にしか自分を見出せなかったのかな?
そういえば、数代前の総理にそんな人が居ましたねw
かくして、義景から大恩を受けた信長と家康ですが、そこは戦国武将の厳しさ、『こんな奴は世の害悪になるだけ』とばかりに朝倉氏、浅井氏は一気にひねり潰されてしまいます。
天正元年(1573年)8月、越前に進攻した織田軍に対し義景は動員令を発するも、再三にわたり裏切られて来た家臣団には呼応する者はほとんど無く、18日には先鋒の柴田勝家が一乗谷に乱入し、朝倉氏百年の栄華の城下は灰燼に帰します。
義景も自害して果て朝倉氏は滅亡しました。
天正元年(1573年)8月、越前に進攻した織田軍に対し義景は動員令を発するも、再三にわたり裏切られて来た家臣団には呼応する者はほとんど無く、18日には先鋒の柴田勝家が一乗谷に乱入し、朝倉氏百年の栄華の城下は灰燼に帰します。
義景も自害して果て朝倉氏は滅亡しました。

資料館にあった金ヶ崎の退き口の際の朝倉氏の対応
これを見る限り、織田軍は全軍が平然と余裕で京に帰還したんではないか?という気がしてきました。
朝倉義景という武将、巷間言われる様に本当に暗愚だったのか?…という疑いを持って調べ始めたのですが、この人は戦う事自体が嫌いだったんじゃないかと思う行動を繰り返していますね。
合戦に臨んでも戦略らしきモノは見えないし、勝機を見分ける力というか、動物的本能の様なものを感じません。
戦場に居ても、心中は血生臭い現実から逃避して、別の所にあったんじゃないかと思います。
この人、正室も側室も居ながら、実子はひとりしか居ません。
戦国を生きる為、勝ち残る為には子作りも重要な役目ですけどね。
そうした次元には居ない、過去がどうだろうと、先がどうなろうと、自分自身の現在にしか興味が無い中性的な人柄をふと思い浮かべてしまうと同時に、『あ、現代の日本人と同じだ!』と感じてしました。
合戦に臨んでも戦略らしきモノは見えないし、勝機を見分ける力というか、動物的本能の様なものを感じません。
戦場に居ても、心中は血生臭い現実から逃避して、別の所にあったんじゃないかと思います。
この人、正室も側室も居ながら、実子はひとりしか居ません。
戦国を生きる為、勝ち残る為には子作りも重要な役目ですけどね。
そうした次元には居ない、過去がどうだろうと、先がどうなろうと、自分自身の現在にしか興味が無い中性的な人柄をふと思い浮かべてしまうと同時に、『あ、現代の日本人と同じだ!』と感じてしました。
今年は戦後70年という事で、例年に無く戦争と平和に対する議論が盛んに行われていますが、現在の平和な状況で戦争の是非を判断するのは間違いで、断罪するなどもっての外と思います。
今の日本が義景の代の朝倉家の状態にあるんではないかと、違う心配がふと頭をよぎります。
今の日本が義景の代の朝倉家の状態にあるんではないかと、違う心配がふと頭をよぎります。