北陸の城探訪 福井県 金ヶ崎城 登城日2015.08.08

城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 平 通盛
築城年 養和元年(1181年)
主な城主 気比氏、甲斐氏、朝倉氏
廃城年 天正元年(1573年)
遺構 曲輪、土塁、堀切、竪堀
指定文化財 国の史跡
所在地 福井県敦賀市金ヶ崎町
天守構造 なし
築城主 平 通盛
築城年 養和元年(1181年)
主な城主 気比氏、甲斐氏、朝倉氏
廃城年 天正元年(1573年)
遺構 曲輪、土塁、堀切、竪堀
指定文化財 国の史跡
所在地 福井県敦賀市金ヶ崎町
お盆休みを利用して北陸路を歩いて来ました。
まず最初の訪城は北陸への入口、敦賀にある金ヶ崎城です。
まず最初の訪城は北陸への入口、敦賀にある金ヶ崎城です。
金ヶ崎城の歴史は古く、平安末期の 治承・寿永の乱(源平合戦)の頃、平清盛の甥で越前国国司の平通盛が築城しました。
畿内と北陸をつなぎ、敦賀湾沿いに北上する敦賀街道を遮断する様突き出した半島の上にあるこの城は、幾度となく戦いの舞台となりました。
畿内と北陸をつなぎ、敦賀湾沿いに北上する敦賀街道を遮断する様突き出した半島の上にあるこの城は、幾度となく戦いの舞台となりました。
築城当初、平通盛には木曾義仲の南下を防ぐ目的がありましたが、この時は平氏の主力が越中~加賀国境の倶利伽羅峠で義仲軍に大敗した事から、通盛も金ヶ崎を含む越前・若狭の諸城を放棄して京に逃げました。
鎌倉期、この地は気比神宮の所領であった様で、その神官:気比氏は大きな勢力を持ち、次第に武士化して行き、金ヶ崎城はその居城であった様です。

金ヶ崎城址から観る敦賀の町並み
日本海航路の要港で、京にとっても重要な湊でした
鎌倉幕府が倒れた後の1336年(延元元年)、後醍醐天皇の建武の新政に反発する足利尊氏が京に迫ると、天皇方の将:新田義貞は天皇の子の恒良親王、尊良親王を奉じて落ち延び、金ヶ崎城に入ります。
しかし、すぐに足利方の斯波高経らに包囲されてしまいます。
翌年早々、義貞は闇夜に紛れて脱出し、杣山城(福井県南越前町)に拠って体勢を立て直し、金ヶ崎城の救援を試みるも足利方に阻まれます。
一方、金ヶ崎城にも足利方が攻め込み、兵糧攻めで弱った城兵は次々と討ち取られ、義貞の嫡男:義顕と。尊良親王は、城兵300名とともに自害しました。
もうひとりの恒良親王は捕縛され落城します。
足利方の城となった金ヶ崎城は、越前国守護代の甲斐氏のものとなります。

中腹にある金崎宮
菊紋が示す通り、自害した尊良親王を祀っています
室町中期の1459年(長禄3年)にも金ヶ崎城は戦火に包まれます。
越前では守護斯波氏と守護代甲斐氏の対立が深刻化していましたが、幕府より古河公方:足利成氏征討の命を受けた斯波義敏はこの出兵を好機に、突如甲斐常治の金ヶ崎城を攻撃します。
しかし、予見していた甲斐氏の守りは堅く、逆に反撃を受けて義敏方は大敗してしまいます。
この私的な戦いは将軍:足利義政の怒りを買い斯波氏は没落へと向かいます。
この戦いで甲斐氏を支援して活躍したのが朝倉孝景で、この後越前朝倉氏が台頭するきっかけともなりました。
越前では守護斯波氏と守護代甲斐氏の対立が深刻化していましたが、幕府より古河公方:足利成氏征討の命を受けた斯波義敏はこの出兵を好機に、突如甲斐常治の金ヶ崎城を攻撃します。
しかし、予見していた甲斐氏の守りは堅く、逆に反撃を受けて義敏方は大敗してしまいます。
この私的な戦いは将軍:足利義政の怒りを買い斯波氏は没落へと向かいます。
この戦いで甲斐氏を支援して活躍したのが朝倉孝景で、この後越前朝倉氏が台頭するきっかけともなりました。

本丸跡にある古戦場碑
戦国時代の後期になると、越前は朝倉氏が統一しており、当主:朝倉義景は一乗谷城を居城に、畿内一円や京にも影響力を持つ様になっていました。
しかし、織田信長が台頭して入京を果たす様になると、背後の朝倉氏の存在は無視できず、キナ臭くなって行きます。
信長は北近江の浅井氏と同盟を結び、朝倉氏に蓋をする形で京での活動を可能にしますが、畿内の反信長勢力の抵抗は根強く、彼らを積極支援している朝倉氏の存在はもう許せなくなってきます。
しかし、織田信長が台頭して入京を果たす様になると、背後の朝倉氏の存在は無視できず、キナ臭くなって行きます。
信長は北近江の浅井氏と同盟を結び、朝倉氏に蓋をする形で京での活動を可能にしますが、畿内の反信長勢力の抵抗は根強く、彼らを積極支援している朝倉氏の存在はもう許せなくなってきます。
元亀元年4月、信長は同盟者の徳川家康と共に3万の兵力で朝倉領に侵攻しました。
まず支城の手筒山城を一気に力攻めで落とした織田軍は、次いで朝倉景恒が守る金ヶ崎城に殺到します。
景恒は朝倉家一門の中でも筆頭の序列の家臣でしたが、義景やその従兄弟の景鏡との仲は決して円満でなく、一乗谷からの救援軍はその後の侵攻に備えてまず木の芽峠周辺を固め、金ヶ崎への到着は遅れます。
まず支城の手筒山城を一気に力攻めで落とした織田軍は、次いで朝倉景恒が守る金ヶ崎城に殺到します。
景恒は朝倉家一門の中でも筆頭の序列の家臣でしたが、義景やその従兄弟の景鏡との仲は決して円満でなく、一乗谷からの救援軍はその後の侵攻に備えてまず木の芽峠周辺を固め、金ヶ崎への到着は遅れます。
そうした状況を知ってか、景恒は織田軍の降伏勧告を受け容れ、一乗谷に向け退去してしまい、信長は労せず金ヶ崎城を手に入れ、入場しました。

神社に展示してある城址模型
手前の岬が金ヶ崎城で、奥の山城が支城の手筒山城。 間を敦賀街道が通っていました。
戦わずして一乗谷に戻った景恒は、家中から腰抜けの誹りを受け、永平寺に遁走して出家してしまいました。
その時、近江から浅井長政の裏切りを知らせる一報が届きます。
この狭隘な敦賀の地で挟み撃ちになれば、大敗は免れないので、信長は即座に撤退を決め、供回りを連れて脱兎の如く京を目指して脱出します。
殿軍(しんがり)は池田勝正(木下籐吉郎とも)に命ぜられました。
この狭隘な敦賀の地で挟み撃ちになれば、大敗は免れないので、信長は即座に撤退を決め、供回りを連れて脱兎の如く京を目指して脱出します。
殿軍(しんがり)は池田勝正(木下籐吉郎とも)に命ぜられました。
撤退は勝正の好采配により、主力部隊も整然と敦賀を離れ、京に向かいます。
朝倉の軍が現れたのはその後の事で、織田軍は大きな損害を蒙る事なく、金ヶ崎城を離れて全軍京への退却に成功します。
『金ヶ崎の退き口』と言われる撤収戦の真相がこれで、籐吉郎の活躍は後世の捏造の様です。
朝倉の軍が現れたのはその後の事で、織田軍は大きな損害を蒙る事なく、金ヶ崎城を離れて全軍京への退却に成功します。
『金ヶ崎の退き口』と言われる撤収戦の真相がこれで、籐吉郎の活躍は後世の捏造の様です。

手筒山城址遠望 木の芽峠に防衛の陣を敷いた朝倉軍に対し、一気に撤退する織田軍。
追撃の態勢が整う前にわずかな平地を一気に駆け抜ければ後は登り坂になり、要所に迎撃兵を置いたら、そう簡単に追撃できるものではありません。
秀吉の手柄の様に言われますが、池田勝正の作戦勝ちですね。
一度は撤退した信長ですが、4年後の1573年(天正元年)、には浅井氏、朝倉氏ともに滅ぼして、北辺の敵を掃蕩します。
この時、金ヶ崎城は廃城とされました。
この時、金ヶ崎城は廃城とされました。
金ヶ崎城を歩く
スタートは城山の南側の麓にある“金前寺”で、ここに大きな駐車場があります。

境内には松尾芭蕉の句碑がありました

奥の細道の旅程の最後に敦賀に逗留した芭蕉 近郷で詠んだ10句が遺されています

城址には手軽に散策できる遊歩道があります 大手道とは違う様ですが、この時季に木陰の道は有難いw

木々の間から時折海が見えて、風が通って気持ちイイ

下を覗くと、こうした急な崖が続いてて、要害の地にある城址である事を窺わせます

城は連郭で曲輪が続き、その間にはこうした堀切があって遮断しています

連郭を縦断して行く遊歩道 ゆっくり観たい人にも、急ぐ人にも優しい整備です

北端が最高所になり、本丸というべき“月見御殿跡”の平場があります

その北は岩盤の断崖になって海に落ちており、比高差は50m以上ありそう。

春は桜の名所としても賑わう様ですね。
金ヶ崎城と言えば、豊臣秀吉の退却戦のイメージが強かったのですが、古来からの要衝で、幾多の戦いが繰り広げられ、特に南北朝の争いでは象徴的な戦場だった事を知りました。
今回の取材の目的のひとつ、朝倉氏の内部事情についても少なからずヒントを得たので、次は一乗谷を目指します。

入り江が深く、波も穏やかな敦賀湾です