大坂城を歩く『天守~青屋口~玉造口』
大阪城の最終回です。
いよいよ天守に入って行きます。
いよいよ天守に入って行きます。

大阪城の天守は昭和3年に、当時の大阪市長の呼び掛けにより集まった民間の寄付金で着工し、昭和6年に竣工した“復興天守”です。
構造は鉄筋コンクリート製ですが、5層8階の規模で、日本最大の天守です。
集まった寄付金は150億(現在の価値で)ともいわれ、大阪の象徴を欲する市民の熱意が高かったといえますね。
構造は鉄筋コンクリート製ですが、5層8階の規模で、日本最大の天守です。
集まった寄付金は150億(現在の価値で)ともいわれ、大阪の象徴を欲する市民の熱意が高かったといえますね。

天守南正面 こちらからだと、大きな破風が豪華さと天下人の城の雰囲気を醸していますね
この天守ももう84歳。少し厚化粧気味で、アニマル柄パンツを連想しますw

西ノ丸から見た頂部 黒漆仕上げ風で彫刻を入れたり、豊臣風の装飾をしていますが、やっぱり徳川の城に見えてしまいますw
当時の市民感情としては、『太閤さんの大坂城』なんでしょうが、豊臣大坂城の遺構は失われているので、徳川大坂城の天守台を使って建てられました。
その制約もあって、徳川天守と同様の“層塔型天守”を基調にしていますが、最上層の7,8階だけは豊臣天守の“望楼型天守”の意匠が施されています。
豊臣・徳川折衷天守という事ですね。
その制約もあって、徳川天守と同様の“層塔型天守”を基調にしていますが、最上層の7,8階だけは豊臣天守の“望楼型天守”の意匠が施されています。
豊臣・徳川折衷天守という事ですね。

天守西下側面より コンクリート製の構造ですが、石落しなど、細部まで忠実な造形がなされています
この天守は過去に2回ほど入った事があるので、パスも考えましたが、新たな発見があるかも知れないので、入城してみる事にします。
ところが、切符売り場の所まで長蛇の列が出来ています。
これは、入場規制してるんかな?…と思いきや、係員が何やら言ってるので耳を傾けてみると、『エレベーター待ちの渋滞です。階段利用される方は右側よりお進みください』 との事でした。
ここも外国人比率は90%超えの様子ですが、興味の質の違いなんでしょうね。
ところが、切符売り場の所まで長蛇の列が出来ています。
これは、入場規制してるんかな?…と思いきや、係員が何やら言ってるので耳を傾けてみると、『エレベーター待ちの渋滞です。階段利用される方は右側よりお進みください』 との事でした。
ここも外国人比率は90%超えの様子ですが、興味の質の違いなんでしょうね。

最上階からの展望
大阪のランドマーク争いのライバル“あべのハルカス”

あんな所に乗船場が…
行列を横目にスイスイと入場できましたが、中もまた凄い混雑です。
とてもゆっくり観て廻る環境ではないので、展示品をサクサクとチェックして、『冬の陣図屏風』で本多忠朝だけ確認して、早々の退出となりました。
とてもゆっくり観て廻る環境ではないので、展示品をサクサクとチェックして、『冬の陣図屏風』で本多忠朝だけ確認して、早々の退出となりました。
天守を右手に見ながら、山里曲輪に降りて行きます。
ここは豊臣大坂城の頃とあまり変えていない場所と言われます。
秀吉が母:大政所のために故郷の尾張中村の風景を再現した…と言われます。
ここは豊臣大坂城の頃とあまり変えていない場所と言われます。
秀吉が母:大政所のために故郷の尾張中村の風景を再現した…と言われます。
『とうきちろうは、ほんにありがてゃぁ子だでw』
それなりに緑の多い郭でした。

日本人の故郷をモチーフにした山里曲輪は落ち着いた雰囲気です

極楽橋の枡形も立派ですが、空襲の被害を受けたのか、改修跡が目立ちます
極楽橋を渡って、二ノ丸に出ます。
大阪城唯一の木橋で、秀吉の頃には唐風の屋根と豪華な彫刻に彩られた、高貴な橋だった様です。
秀吉の死後に京都の豊国神社に移築され、その後に琵琶湖の竹生島に寄進されて、門として残っているそうです。
徳川大坂城では普通に木橋でしたが、現在はコンクリートです。
大阪城唯一の木橋で、秀吉の頃には唐風の屋根と豪華な彫刻に彩られた、高貴な橋だった様です。
秀吉の死後に京都の豊国神社に移築され、その後に琵琶湖の竹生島に寄進されて、門として残っているそうです。
徳川大坂城では普通に木橋でしたが、現在はコンクリートです。

ここからの天守もお奨めのビューポイントです
極楽橋北詰めの辺りは、二ノ丸でもいちばん狭いエリアで、百mほどの幅しかありません。
外堀の様子なども見ながら、内堀沿いを東に向かいます。
外堀の様子なども見ながら、内堀沿いを東に向かいます。

北外堀と城外の風景
青屋門を過ぎると本丸高石垣が目の前に迫って来ます。
上から見るのも凄かったけど、こうして見上げるとまた迫力がありますねw
上から見るのも凄かったけど、こうして見上げるとまた迫力がありますねw

右手に続く本丸高石垣の壁
右上の角が、用足し…じゃない、石垣覗きをした場所ですw

ここいらが、最高所だと思われます
高石垣に見とれて歩いていると、道はいつしか登り坂になり、上町台地に登って行きます。
その分、堀は深く感じるのですが、ここはさぞかし難工事だったんでしょうね。
普通に、縄張りする際に、もっと東に堀をレイアウトすれば楽だったのに…とも思いますが、積上げる土砂の確保が目的だったのでは? と思ったりもします。
その分、堀は深く感じるのですが、ここはさぞかし難工事だったんでしょうね。
普通に、縄張りする際に、もっと東に堀をレイアウトすれば楽だったのに…とも思いますが、積上げる土砂の確保が目的だったのでは? と思ったりもします。

本丸上から見ると、無理に台地を掘削してるのが判ります
玉造口の枡形を抜けて、森ノ宮の駅に向かいます。
よく歩いたけど、改めて考えてみると、敢えて豊臣を外したせいか、まだまだ見逃しがある様な気がします。
実質半日ですが、大坂城は一日にして成らず ですね。
よく歩いたけど、改めて考えてみると、敢えて豊臣を外したせいか、まだまだ見逃しがある様な気がします。
実質半日ですが、大坂城は一日にして成らず ですね。

最後に、『西国大名に示した徳川の威信』 というテーマに対するまとめです。
徳川大坂城築城は主に中国以西の西国大名に賦課された天下普請でした。
主目的は、城の戦略価値ではなくて、外様雄藩の財力の消費と、徳川家との上下関係を再認識させる権威の象徴にあると思います。
主目的は、城の戦略価値ではなくて、外様雄藩の財力の消費と、徳川家との上下関係を再認識させる権威の象徴にあると思います。
関ケ原の頃は、泰平の世の実現に向けた協調関係だった筈が、いつしか家臣扱いになり、改易も辞さない幕府の態度に、外様雄藩もこうした天下普請には生き残りを賭けて必死に取り組み、過剰なサービス合戦になり、挙句には財政破綻を来します。
こうした一方的な支配と隷属のみの関係は、国家の正常な発展を妨げ、ストレスを蓄積させます。
幕末には長州が蜂起したのを初め、薩摩、土佐、肥前、肥後、筑前、備前…と、次々に同調して行きます。
幕末には長州が蜂起したのを初め、薩摩、土佐、肥前、肥後、筑前、備前…と、次々に同調して行きます。
将軍:徳川慶喜はその権威の象徴の大坂城に籠って対処しようとしましたが、日々悪くなる旗色に家臣を捨てて逃げるという武士の大将にあるまじき愚行に出てしまいます。
指揮官を持たない大坂城は薩長の容赦ない砲撃にさらされ、炎上落城しました。
指揮官を持たない大坂城は薩長の容赦ない砲撃にさらされ、炎上落城しました。
徳川大坂城とは… 外様大名の怨念の象徴と痕跡の様な気がしてきました。

本丸上にあった小さな社
大坂城は石山合戦の頃から、本願寺門徒、織田勢、豊臣勢、徳川勢と、数万人の犠牲者が出た場所です
慰霊碑を探したけど見つからなかったので、ここで手を合わせました。
大坂城 完