大坂城を歩く『圧巻の桜門!』
西ノ丸を出て、二ノ丸を経由して本丸に向かいます。

二ノ丸との仕切りに石塁が並び、太鼓櫓の櫓台がありますが、ちょうどこの辺りが石山本願寺の本堂だった様で、石碑があります。
そこを南へ入って行くと、南外堀に面した六番櫓が見られます。
そこを南へ入って行くと、南外堀に面した六番櫓が見られます。

此処に最初に城砦を建てたのは本願寺でした

六番櫓 内側の意匠は至ってシンプルですね
輪郭式の大坂城の二ノ丸は、西ノ丸になる西側区間を除いて逆C字型に本丸を取り巻いていますが、この南側のエリアが最も広く、武者溜りの機能もあったのでしょうね。
現在は武道館の『修道館』と『豊国神社』が鎮座していますが、江戸時代は定番屋敷や兵舎があった様です。
現在は武道館の『修道館』と『豊国神社』が鎮座していますが、江戸時代は定番屋敷や兵舎があった様です。
いよいよ本丸へ続く“桜門”に向かいます。
この本丸南側の内堀は空堀になっていて、夏草が旺盛に繁っています。
この空堀形状は豊臣大坂城の頃とあまり変化は無い様です。
この本丸南側の内堀は空堀になっていて、夏草が旺盛に繁っています。
この空堀形状は豊臣大坂城の頃とあまり変化は無い様です。

本丸の南側の内堀は空堀になります

豊臣大坂城では懸け造りの千畳敷が建ってた辺り、徳川大坂城では無機質な感じがします
なぜ空堀なのかと言えば… たぶん上町台地の岩盤があるんでしょうね。
桜門も本丸の大手口ですが、豊臣大坂城でも名前は“桜門”でした。
豊臣時代はこの東側に“懸造り”の千畳敷の建物が建ち、堀の対岸の二ノ丸には能舞台が造られていた場所です。
徳川に“風流”を望んでも詮無い事ですが…w
桜門も本丸の大手口ですが、豊臣大坂城でも名前は“桜門”でした。
豊臣時代はこの東側に“懸造り”の千畳敷の建物が建ち、堀の対岸の二ノ丸には能舞台が造られていた場所です。
徳川に“風流”を望んでも詮無い事ですが…w
さて、桜門です。

桜門も土橋で入ります
すでにお判りの様に、とんでもない巨石が使われていますね

高麗門の左側が龍石、右側が虎石。
雨が降ると龍虎の絵が浮かび上がるからだそうですが、前代未聞の巨石の活用が、そんな都市伝説を生みます。
門内にはさらにデカイ石がね見えてますw
この本丸表玄関の重要な場所を施工したゼネコンはと言えば、備前岡山藩:池田忠雄です。
領内に花崗岩の産地の島々を有する池田家は、瀬戸内海の水運のアドバンテージを存分に活かして、大量の巨石を持ち込んで、桜門の枡形を構築します。
領内に花崗岩の産地の島々を有する池田家は、瀬戸内海の水運のアドバンテージを存分に活かして、大量の巨石を持ち込んで、桜門の枡形を構築します。
高麗門以外の建物は残念ながら失われてしまっていますが、石の櫓台はそのまま健在で、往時の姿を保っています。

蛸石と呼ばれる大坂城最大の石 多聞櫓の櫓台ですが、この部分はこれ1個!

恐ろしいほどの巨石の競演です

外国人観光客はみなここで記念撮影
この後、カメラを渡されシャッター押しを頼まれました。 …いえ、右の三人組にね。韓国の若者達でしたwww
大手門を担当した肥後熊本藩と張り合う様に、巨石の競演を繰り広げた岡山藩ですが、最後の仕上げで差が付きます。
巨石と加工技術の粋をふんだんに盛り込んだ桜門枡形は、“日本一”といって過言ではないでしょう。
巨石と加工技術の粋をふんだんに盛り込んだ桜門枡形は、“日本一”といって過言ではないでしょう。

渡り櫓門の櫓台の石もこの大きさ。
江戸城二ノ丸の中ノ御門の石と同等か、それ以上ですね。

ここで遂に凄いモノを見てしまいます!
このカップル… の後ろの石の切り方ですw
こんな加工有り得んでしょ、石ですよ? 発砲スチロールじゃあるまいし。
加工技術の精度を証明するデモンストレーションと見ました。
池田さんは西国大名だけに遊び心が有りますねw
しかし、直接の影響は証明できませんが、後々まで親藩並に優遇された池田家と10年後には改易されてしまった加藤忠広…。
天下普請の場でも大藩同士の生き残り合戦は熾烈だったのですね。
天下普請の場でも大藩同士の生き残り合戦は熾烈だったのですね。
次は本丸内をグルリと廻ります。