城歩きをする時、なるべくその城の基本情報を持って行く様にしています。
城址のパンフや説明看板を見て、知った史実をその場で消化する為なのですが、江戸時代に残った城址を訪ねると、『親藩』の城に出逢う事は少なくありません。
 
 親藩とは?… 徳川家の親族=松平氏なのですが、親藩の数はとても多く、同じ松平でも、松平(久松)家とか、松平(大河内)家とかで標記されてますね。
この(○○)は何なのか? どんな素性で格付けはどう違うのか… 疑問を持った事はありませんか?
今回はこの松平氏を私的に一覧にまとめた資料を紹介します。
 
イメージ 3松平の殿様①
(会津)松平肥後守正之

保科正之として著名な会津松平家初代藩主。
二代将軍:徳川秀忠の三男だが、正室お江への遠慮から保科家で養育され、後に保科家を継承する。
三代将軍:家光の異母弟として幕政を支え、徳川幕府の草創期に重きをなした。
 徳川家門として松平姓を名乗る様に再三勧められるも、養父:保科正光への恩義を優先し、生涯保科姓で通した。
 
 
 松平氏とは?… もちろん徳川氏の母体の氏族です。
家康が徳川を名乗るのは、織田信長と同盟して三河を平定した1566年頃の事ですが、それまでは“松平元康”でした。
*元康の元は今川義元からの偏諱であり、この機に返上している
 
 松平氏は元々三河山間部の松平郷(愛知県豊田市)に根を張った土豪で、室町幕府の高官“伊勢氏”に仕える被官だった様です。
 松平氏は西三河で徐々に勢力を拡げ、その土地ごとに諸子を置いて分家を建てさせ、形原松平、竹谷松平…などと称して区別していましたが、戦国初期には“松平十八家”と言われるほどに拡散して行きます。
 
イメージ 4松平の殿様②
(大河内)松平伊豆守信綱
“知恵伊豆”と呼ばれた幕府初期の老中。
武蔵川越藩初代藩主
三代将軍:家光に小姓から近侍して幕閣として活躍する。
“島原の乱”鎮圧の功で老中になると“鎖国”や“参勤交代”などの政策を断行して、徳川長期政権の礎を築いた。
頭脳明晰で、幕閣の間では『伊豆守と知恵比べをしてはならない』は合言葉だった。
 
 
 宗家は“安城松平家”と称して一族を統率するのですが、家康の祖父:清康の頃になると、伊勢新九郎(北条早雲)の家来筋や由緒の判らぬ在地の土豪ではさすがにマズイ…という事になり、武家の棟梁である源氏の足利将軍家に近い氏族であるかの様に系図改竄を図ります。
 
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 新田氏の祖:新田義重の四男に上野国新田郡得川郷(現:群馬県太田氏徳川)を領した“得川義季”という者が居り、この家系が“三河守”を叙任してる事から、この一族の者が流浪して三河に流れ着き、松平氏の娘婿になって『松平親氏』を名乗った…という事にして、源氏系松平氏を粉飾したのです。
 
 しかしこれも、そう簡単には認められず、孫の家康の代になって、朝廷への影響力が行使できる様になって初めて、家康個人に限り認められました。
 したがって家康の子孫も、徳川氏を名乗れたのは将軍家と御三家、御三卿だけに限られました。
 
 
前置きが長くなってしまいましたが、松平家の一覧をご覧ください。
 
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 松平氏は前述した様に、分家をたくさん作りますが、一族としての結束は特段に強固だったとは言えず、互いに宗家の地位を争ったり、敵に寝返る事も有った様です。
 それでも徳川家康は六代も遡る“血縁”を大事にし、味方に組み込んで、幕府開設の後にはその多くの松平家を大名あるいは高給旗本として遇しています。
しかし、家康にとっての親戚の大名は親藩というより、譜代(家臣)の位置付けだった様です。
*東条松平家の石高は、家康が実子の忠吉に継がせたが故の特例です
 
イメージ 5松平の殿様③
(久松)松平左近衛将定信
八代将軍:吉宗の二男:田安宗武の七男。
利発で、将来の将軍候補とも言われたが、老中:田沼意次の政策に批判的で疎まれ、久松家に養子に出され、陸奥白河藩主となる。
意次が失脚すると、藩政の手腕を買われて老中に登用され、祖父:吉宗の“享保の改革”に倣って“寛政の改革”を断行した。
しかしその厳しい内容から、『白河の 清きに魚の 棲みかねて 濁れし元の 田沼恋しき』といった狂歌も詠まれた。
 
 
 
 家康にも、父の広忠にも兄弟が無かったので、家康の子孫が実質の親藩という事になります。
 面白いのは、久松松平家の扱いで、家康の実母は水野家の於大の方ですが、戦国の常で水野家と争う事になった松平家は於大の方を離縁してしまいます。
 後に久松俊勝に再嫁するのですが、ここで産まれた異父弟達を家康はとても優遇してるのが判ります。
実は家康は実母に何度も逢いに行ってる…という事実もあります。
女性の好みも“オバチャンタイプ”だった様ですし、“家康マザコン説”は本当かも知れませんねw。
 
イメージ 6松平の殿様④
(越前)松平権中納言慶永
福井藩主で、慶永より春嶽の名が有名。
幕末の幕政が混沌とする中、徳川御家門として将軍を支え、井伊直弼らの幕閣と激しく対立した。
幕末の四賢候のひとりと言われ、外様雄藩をまとめて公武合体に尽力し、国内の分裂を阻止していたが、将軍:慶喜の翻意もあり、結局は戊辰戦争を抑える事はできなかった。
薩長との関係は良く、明治新政府でも要職を歴任した。
 
 
 家康の子供の家は当然の事ながら、御家門、親藩の扱いになります。
特に目立つのは信康がもう居ないので長子となる秀康の扱いで、5家に分かれるものの、合計すると85万石と、御三家を上回る石高です。
 そもそも御三家を造った経緯は別にあり、タイミングが災いしただけで、秀康が長子の扱いを受けていたのは間違いの無いところです。
 
 会津、越智は将軍の庶子を独立させた家ですから一門の扱いです。
 
 御三家の連枝は御三家の支藩で、藩主が途絶えた場合に跡継ぎを供給する役目があり、言い換えれば将軍を出すかも知れない家なので、これも一門ですね。
 
 最後に奥平松平家ですが、これは家康の娘の嫁ぎ先です。
普通は親藩にはならないのですが、この奥平家とは長篠城の奥平家で、武田家を滅ぼすのに活躍した家…という事で、特別に松平姓が与えられましたが、ここは譜代の扱いだったでしょうね。
 
 こうして見て行くと、ひと口に松平家と言っても色々あって、その素性で見え方が変わって来たりして、なかなか面白いものです。