家族旅行で吉野山を訪ねました。
春に義母が他界し、仏教に触れ合う機会が増えています。
そうした中で自然に決まった吉野への旅でした。
 
イメージ 1
 
 
 吉野といえば桜の名所で有名ですが、霊場:大峰山の急な尾根筋に添って寺社が建ち並ぶ様は容易には人を寄せ付けない“荘厳さ”を醸しています。
 権力者や寺社間の争いが絶えなかった時代、門前町として も城砦としての構えが必須だったのかも知れません。
南北朝の頃には、南朝の都として後醍醐天皇の御所が置かれていました。

 

イメージ 2
道幅が狭く駐車場も少ない吉野へは、麓からケーブルカーで登るのが一般的
 
 吉野の起こりはさらに古く、歴史に現れるのは672年、大海人皇子(天武天皇)がの大津の都から来て出家し、隠棲した…というのが最初ですが、吉野には聖徳太子が創建した…と伝わる寺院も存在し、さらに百年遡る歴史を持つ様です。
 
イメージ 3
ケーブルカーを降りると参道です
両脇には旅館、食堂、土産物屋が並びます    吉野といえば、『葛』ですね
 
イメージ 4
参道の途中に高麗門があります
 
 平安末期、平氏を滅ぼした源義経は兄:頼朝の追討を受け、一時吉野に身を隠したそうです。
 ここで静御前と別れて平泉へ旅立つのですが、その様子は浄瑠璃『義経千本桜』として伝えられます。

 

イメージ 5
更に登って行くと、前方に鳥居が見えてきました
 
イメージ 6
この鳥居、説明書きには『奈良の大仏を造った際に、余った銅材を用いて造った…』とありますから、相当に古いです
 
 鎌倉末期の1332年には、倒幕運動である元弘の変が起こり、大塔宮護良親王が吉野を拠点にしましたが、幕府軍の二階堂貞藤に攻められ、親王は高野山に逃れました。
この時、吉野の堂塔伽藍は灰燼に帰したそうです。

 

イメージ 7
さらに奥に進むと、世界遺産“金峯山寺”が見えて来ました
暑い日だけど、全員のテンションが上がりますw
 
イメージ 8
国宝の仁王門はあいにく修理中でしたが、
 
イメージ 9イメージ 10
阿吽の像は観れました
 
 3年後の建武3年、足利尊氏との争いに敗れた後醍醐天皇は神器を持って吉野に入り、京の朝廷に対抗して南朝を建てます。
南朝には新田義貞、北畠顕家、楠木正成らが参じて、吉野を守りました。
 1348年、南北朝の戦いは北朝側の優位が鮮明になり、吉野にも高師直の軍が攻め寄せて、時の後村上天皇はより山間の賀名生に逃れ、吉野は再び灰燼に帰します。

 

イメージ 11
もうひとつの国宝“蔵王堂”は500年前の姿を見せてくれます
 
イメージ 12
これは確かに  “国の宝”だ
 
 その後の吉野は大峰山の行者らによって徐々に復興され、次第にその姿を取り戻して行きます。
戦国期になると参詣者による桜の苗の寄進が盛んになり、桜の名所となって行きます。
 天下統一を成し遂げた豊臣秀吉も、1594年には諸将5千人を引き連れて大花見を行ったそうです。

 

イメージ 13
境内は行者さん達の参詣が絶えません  山岳信仰は現在も盛んな様ですね
 
 吉野の桜は「ひと目千本」と言われ、視界に収まる範囲で千本…という事らしいです。
 しかし春の桜の海は視界の外にも続き、下千本、中千本、上千本、奥千本と大分されて称されています。
 じゃぁ吉野の桜は4千本? と、普通に思いますが、実は2万本以上あるそうです。
 金峰山寺の神木が桜だった事から、桜苗の寄進がずっと行われて来て、現在に至ってるのですね。
 
イメージ 14
吉野の桜(吉野町観光協会hpより借用)