甲信越の城  山梨県  新府城  登城日2014.7.26

 

 
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  城郭構造       連郭式平山城
  天守構造       なし
  築城主          武田勝頼
  築城年          1581年(天正9年)
  主な改修者    徳川家康
  主な城主       武田勝頼、徳川氏
  廃城年          1590年(天正18年)
  遺構             土塁、堀
  指定文化財    国の史跡
 
 
 新府城は武田勝頼が躑躅ヶ崎館に替わる武田氏の拠点として築いた城です。
勝頼の祖父:武田信虎は歴代の居館があった石和から府中に移って新たな居館(躑躅ヶ崎館)を築き、ここを拠点に甲斐の国を統一します。
 
 父:信玄はさらに甲斐を拠点に隣接する国々へ領土を拡大し、その晩年には九ヵ国にも跨る広大な支配地を得て、武田氏を代表的な戦国大名にまで成長させます。
 信玄は新たに獲得した領地の人心掌握に努め、敵の侵攻に対してはその情報連絡網を整備し、戦闘地域へ速やかに兵力を展開できる物流網と体制を整備して行きます。
 その結果、合戦は常に国外で行なわれ、甲斐国への敵の侵入を許す事はありませんでした。
その為か、躑躅ヶ崎館は中世居館の形式を踏襲し続け、本格的な城郭の備え
を施す事の無いまま勝頼へと引き継がれます。

 

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躑躅ヶ崎館想像図
中世の領主館の色合いを濃く残しています
 
 勝頼も当初はその遺産で領国経営を行ないますが、当主となって10年後の1581年(天正9年) 、ついに甲斐での居城建設に踏み切ります。
  新たな城地として選ばれたのは、躑躅ヶ崎館の北西15kmにある台地上で、八ヶ岳の造った溶岩台地(七里岩台地)を釜無川と塩川が削って造った、天然の要害の地でした。
縄張りと普請奉行は穴山信君、作事奉行を真田昌幸が務めたと言われます。
 
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地形図で見る新府城の立地 
要害の地形に造る事自体が、武田氏の凋落=自信の無さを物語っていますね…。
 
 
 天正9年3月に始まった築城工事は急ピッチで進み、その年のうちには本丸が完成し、暮れには勝頼が移ってきます。
 躑躅ヶ崎館の機能をそのまま収容できる広大な本丸に加え、外郭は支城:能見城まで取り込んだ南北10km東西4kmの、武田氏の規模に相応しい巨城だった様です。
 外郭工事はその後も続いていましたが、翌天正10年3月、織田・徳川・北条連合軍による武田領侵攻が始まると、組織としてすでに瓦解していた家臣団では寝返りが相次ぎ、本拠地:甲斐へ易々と侵入される事態になります。
 この時の為に築城された新府城ですが、巨城に籠る兵数ももはや集まらず、勝頼はやむなく在城三ヶ月にして城を放棄し、東へ逃避します。
 
 親族の小山田信茂の岩殿城を目指した勝頼でしたが、途中で織田軍に捕捉され、自害して武田氏は滅亡してしまいます。

 

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東側の水堀跡
東の堀端を甲州街道が通っていました。
 
 
 武田氏旧領のうち甲斐は織田家の武将:滝川一益が支配する事になりましたが、続いて起こった本能寺の変で一益が伊勢に撤退すると、旧武田領を巡る北条氏と徳川氏の争い“天正壬午の乱”が起こります。
 この時、いち早く甲斐に侵攻した徳川家康は、新府城址に本陣を構え、信濃を押さえた北条氏に対峙したそうです。
この時にも若干の補強(未完成部分の施工かも…)が為されたそうですが、乱の終息と共に新府城の役目も終わり、1590年(天正18年) の北条氏の滅亡を以て廃城になりました。
 
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本丸から見る台地上
一面に桃畑が広がります  向こうの小山が支城の能見城跡です。
 
 
 
新府城を歩く
 盛夏に夏草をかき分けながらの訪城です。
中央道韮崎ICからのアプローチになりますが、高速道路からも見える七里岩台地の景観は壮観で、百メートル近い断崖が延々と続いています。
 この台地上に登ると、上は比較的平坦で、名産の桃畑が広がっています。
台地上を南北に貫く、県道(通称:七里岩ライン)を北向きに走って行くと、道路沿いに新府城址が現れます。
城址(本丸)の北端に駐車場があるので、クルマを停めて散策開始です。

 

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新府城復元図
古臭い形式に見えますが、規模や構造には鉄砲を意識した対策が見られます。
 
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広い帯曲輪
こうした山城の基準からすれば、個々の郭は巨大です
 
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城址にある藤武神社参道
 
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広い本丸広場
御殿の跡ですが、周囲の土塁はかなり崩落で低くなっています
 
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一段低い二ノ丸跡も広大で、滝山城を彷彿とさせます
 
 
 前述の様に、それまでの武田のコンセプトとは少し違う印象の城です。
東西は断崖なので、攻め口は南北しかなく、南が大手となりますが、虎口の手前には平坦地が広がり、馬出しも備えていて、白兵戦に強さを発揮する武田勢の特徴を活かしている気がします。
 虎口を抜けても、大き目な郭の土塁下を大きく迂回せねば主郭に到達できない構造で、高所からの狙撃・殲滅を容易にしています。
鉄砲主体の戦術転換が図られている部分と言えますね。

 

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白樺が標高の高さを知らせます
 
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復元された“出構え”
鉄砲隊が配備され、城に近付く敵の鉄砲隊を射程外に追い出す機能かと…。
 
 
 北の搦め手口にも、鉄砲を意識したと言われる(説明看板にそう書いていた)堀に出っ張った小郭が2つありますが、その規模は小さく、敵の斉射体制を横から狙撃できる様なモノでは無いので、有効性は疑問ですが…。

 

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勝頼の祠
いつごろ造られた物なのか、城主が祀られています
 
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両脇に並ぶ、長篠戦没将士の墓標
新府城には直接関係ない面々ですが、なにか意味有りげな構図です
 
 
 最後に、武田勝頼の霊を祀る廟の左右に、長篠の戦いで戦死した錚々たるメンバーの慰霊碑が並んで祀られているのが印象的でした。
 築城時に、勝頼が自責の念から祀った…とは思えず、後の世に地元の人達が祀ったものなのでしょうが、
 『もしも最終局面でこの面々が健在だったなら…』 という無念の想いが痛いほど伝わって来ます。
 まともに戦う事なく、この城を放棄しなければならなかった勝頼も、同じ思いで城を後にしたのかも知れませんね。

 

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七里岩台地の東西両側は延々とこの景色が続きます。
七里岩とはよく言ったものだと思います。