今回は日頃実践してる城歩き・歴史探訪の楽しみ方の一端をご紹介します。
 
 歴史上の事件の真相は、残された文書や画像で窺い知る訳ですが、そうした資料は殆どの場合、部分的な実体験や、自己の武勇の宣伝の為に描き記されていますから、全体像は想像が多く、当然ながら誇張も多くなります。
 
 ここに一枚の三方ヶ原の戦いの陣立て図があります。
 
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この図が有るのは、群馬県甘楽町の歴史民俗資料館で、二階に展示してあります。
 甘楽町といえば、武田の武将:小幡信貞の本拠地であり、その後は徳川の井伊直政が統治し、徳川幕藩体制では、織田信雄の子孫が統治しました。
いずれにしても、合戦の当事者であり、その家に伝わったもの…とすると、内容の信頼性は高いと言えます。
 
 敢えてここでこの図を採り上げるのは、この陣立てが歴史の通説とはまるで反対の配置になっているからです。

 

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浜松城に展示してある陣立て図
 
 
 浜松城に籠る徳川・織田連合軍を牽制した信玄は、西に反転し、三方が原の端の根洗で陣形を整えます。
城を出撃した徳川方は信玄を追って北上し、合戦に及んで惨敗した…。
これが定説ですが、上の陣立て図では先に根洗に布陣しているのは徳川勢です。
そして織田の援軍の名前は見られず、援軍が現れた経路のみ記されています。
 武田軍は縦列で北上しているのが判り、縦陣で戦闘に突入した模様です。
殿軍の一部が別動隊となって、脇街道から徳川勢の後方に回り込んだ事も判ります。
 
 これが徳川方の『正々堂々と信玄と渡り合ったんだよ…』的な捏造資料ならともかく、各隊の配置や武将名が詳細な事を見る限り、武田側の資料である気がします。
 こうなると今回ブログで取り上げたストーリーは成り立たず、伝承の逸話も含め、三方ヶ原の戦いの経過は全面見直しになって途方に暮れてしまいます。
 しかし、この陣立てが史実だとしたら、家康は生きて帰れないだろうなぁ…。
家康影武者説は本当かも…www
 
 こうした、資料のアンマッチは至る所にあって、数々の説が取り沙汰される訳ですが、諸説の中で、自分なりに検証して見て、『これだな!』というモノを見付けるのが一番の醍醐味なのです。
 400年を経た現代でも、現場に行って、その場所に立って見ると、物理的にあり得ない事が見えて来たりします。
通説と言われる事でさえ『違う!』と感じる事も少なくありません。
『ぶら戦国』の面白い所ですね。
 
 それで、この絵図ですが。
こうしたモノは武将の口述したものを絵師が書き留めて絵図に仕上げるのですが、平面の点に存在した武将が、全体を俯瞰できる可能性は少なく、土地勘も無いので、口述も曖昧になってしまいます。
*小幡氏のものだとしたら、本隊から離れた間道の三番目の隊ですからね
 
聴いた絵師も、『変だなぁ?』とは思っても、『それ違うでしょ!』とは言えないし、そもそもその土地の景観など判らないので、かなりアバウトな作品になってしまいます。
 もちろん、出来上がった段階で『これは違う!』となってボツになるのですが、それが廃棄されたかどうかは判らず、秘匿されて現存してるかも知れません。
まぁ、そうした類のモノなんでしょう…ね。