信玄無言の帰還
 野田城落城後2ヶ月近く経った4月初旬、武田軍は信玄の病気療養を理由に帰国の途に付きます。
新暦で言えばもう5月に入っており、春の農耕を始めるにももうタイムリミットぎりぎりの選択でした。

 退陣はスピードが肝心で、三州街道、鳳来寺道、別所街道などに分かれた諸隊は一斉に伊那路を目指します。
幸い、徳川にも織田にも、追撃する余力は無く、“安堵の思い”で見送った事でしょう。
 
 信玄の本隊は鳳来寺道を北上し、田峯城で一泊した後は伊那街道を北上します。
この時すでに騎乗の力はなく、輿で運ばれた事でしょうが、最初から弟の武田逍遥軒信廉が影武者を務め、信玄は真田昌幸ら近臣が目立たぬ様密かに運んだという説もあります。
 
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武田逍遥軒信廉画像
信玄の同母弟で、えぇぇ?と思うけど、近習でも見分けがつかないくらいソックリだったそうです。
信玄の死を隠すため、影武者を務めた…といわれます
 
 根羽から三州街道を進み、10日に浪合を越えた隊列は翌日には伊那谷に入り、東山道の駒場宿に着きました。
この夜に信玄の容体はいよいよ重篤となり、親類衆や主要な家臣が見守る中、最期の時を迎えます。
 
 まず勝頼を枕元に呼んだ信玄は、今後の事を指示します。
『後継は信勝(勝頼の子)とし、成人までは勝頼が代行せよ』
『我が亡骸は諏訪湖の底深くに沈め、3年は喪を秘して、侵攻を慎め』
『もしも存亡の危機があれば上杉謙信を頼れ』

 その後、家臣で最も信頼の厚い山県昌景が呼ばれます。
信玄は昌景を呼び慣れた幼名で呼びます。
『源四郎!明日は我が旗を瀬田(京都)に立てよ!』
これが信玄が発した最後の言葉となり、翌未明に息をひき取ったと言われます。
享年53歳でした。
 
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信玄終焉の地となった駒場宿(長野県阿智村駒場)と遺体が安置された長岳寺
*どちらも阿智村HPより借用しました
 
 図らずも葬列になってしまった武田軍の行軍は、高遠から諏訪に抜けて、18日には甲斐府中に無言の帰還をしました。
辞世は
『大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流』
と伝わります。

 

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信玄が遺言した“諏訪の湖”
病床の信玄が薄れる意識の中で思い浮かべていたのは、かつて愛した湖衣姫の姿だったのかも知れませんね。
しかし重臣協議の上、遺言は果たされず、遺骸は甲州へと向かいます
 
 
ここでまた余談をひとつ
 
『武田信玄の娘 松姫』
いつもカタイ事ばかり書いてるので、今回はラブロマンスですw 
 
 武田家と織田家はかつては盟友関係にあり、縁戚を結んでいた事は、西上作戦①で紹介しましたが、武田勝頼に嫁いだ遠山夫人(信長の養女)が早くに亡くなった為、今度は信長の嫡男:信忠に信玄の娘:松姫が嫁ぐ事になり、縁戚を補完します。
 しかし信忠11歳、松姫はまだ8歳と幼かったので、松姫の輿入れは行なわれず、来る日の為に『織田家嫡男正室』として躑躅ヶ崎館で大切に養育されていました。
 まだ見ぬ未来の夫婦は、手紙や贈り物をマメに交わして互いの理解を深め合って行ったそうです。
 
 そんな折、今回の元亀3年の“西上作戦”が始まり、武田と織田は手切れとなって、婚約も自然と消滅になってしまいました…。
哀しみは表に出せない武門の娘ですが、松姫はまた織田との関係の好転を信じて、独身を通します。

 

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松姫が身を寄せた高遠城
躑躅ヶ崎で大切にされた松姫も居づらくなり、実兄:仁科盛信の高遠城に身を寄せます
13歳から21歳までの多感な時期、ひたすら織田家との復縁を願う日々だったのでしょうか…
高遠から見る夕陽は、信忠の居る岐阜の方角に沈んで行きます。
 
 10年後の天正10年(1582年)、織田軍が武田領に侵攻し、一体感を喪っていた武田家はあっけなく滅んでしまいます。
しかも織田軍の総大将はなんと織田信忠という…松姫にとっては何とも非情で最悪な哀しい運命です。
 
 兄の勝頼や盛信に幼い姫達を託され、北条氏を頼って武蔵の八王子に逃れた松姫ですが、そこに信忠からの使者がやって来ます。
 
『図らずもこの様な仕儀となってしまいましたが赦してください。私は婚約を破棄した覚えはありません。私も織田家の当主になりました。もう誰も邪魔する者はおりません。今度こそ正式に室としてお迎えしたい』
 
…という信忠の申し出でした。
 自分と同様に昔のままだった信忠の気持ちに、やっと報われた思いで信忠の元へと急ぐ松姫でしたが、ちょうどその時、信忠は“本能寺の変”で還らぬ人となってしまいました。
 
 悲嘆に暮れた松姫は剃髪し、『信松尼』と称して武田一族と信忠の菩提を弔う暮らしを始めたそうです。
信…は信玄か?信忠か? たぶん忠に逢う時を(待つ)でしょうねw
 
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この世では叶わなかったツーショットです
信忠にも縁談はたくさん有りましたが、跡継ぎの関係で側室は居たものの、正室は頑なに拒んでいたそうです
 
 
 時は流れて徳川の世になり、そんな信松尼のもとに一人の男の子が預けられます。
*メインで育てたのは姉:見性尼の様ですが…
その子の素性は後の“保科正之”。 二代将軍徳川秀忠が内緒で町娘に産ませた子でした。
 
 秀忠の妻(側室持てないから正室とは言わない)はGOちゃんで、上野樹里が地で演じてピッタリなくらい我儘で傲慢で自分勝手な妻ですw
子供の所在を嗅ぎ付けたGOちゃんは、子供を奪い取り始末する為の武士を差し向けます。
居丈高に脅迫する武士達に怯む事なく毅然と立ちはだかった信松尼は、彼らを一喝しました。

私は…武田信玄の娘じゃきぃ! なめたら…ナメたらいかんぜよぉ!!
*…に似た様な事を言ったそうですw(夏目雅子のイメージでお願いします)

 この言葉に武士達は恥ずかしげに スゴスゴと帰って行きました。
家や階級を問わず、信玄の次の世代の武士達にとって、『武田信玄』という武将がいかに尊敬・崇拝の対象であったか…を示す逸話でした。
この後の松姫には、徳川家康が全面支援して、穏やかな生涯を送れた様です。
*女性主役の大河ドラマをするなら、こういう人を採り上げてもらいたいものです。
 
 
 甲斐府中に戻った信玄の亡骸は、密かに土屋右衛門尉昌次の屋敷に入り、夜間に邸内の林間で荼毘に付されたそうです。
稀代の英雄にしては、寂しすぎる終幕ですが、3年後の天正4年4月、菩提寺の恵林寺で正式な葬儀が催され、晴れて埋葬されました。

 

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甲府市岩窪町にある信玄の墓
元奥近習6人衆のひとり、土屋昌次の屋敷跡で、ここに運ばれた信玄の遺骸は人目につかぬ様、深夜に焼かれ、ここに仮埋葬されたそうです。
 
 
 
 また今回も最後の最後に、主題の真田昌幸の動きです。
(資料が無いのですからw) 
 西上作戦でも“旗本”の昌幸は終始信玄の本陣の帷幕に居て、信玄の采配を見ながら戦い、そして稀代の英雄の最後を見届けます。
昌幸26歳の時です。
 
 7歳で小姓に上がり、近習、奥近習を経て旗本になり、20年間常に傍で仕え、武将のイロハを教えてもらった、父親以上の存在でした。
 信玄も昌幸の利発さに早くから目を付けていた様で、三男坊の昌幸がこのままでは将来は兄:信綱の家臣になるしかないのを惜しんで、武田支族の武藤家を継がせ、独立性を担保しておきます。
 武田家の次の世代の一軍の将として、勝頼の右腕候補として育成していたのは間違いのない所です。
 
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武田信玄画像
ん?…えぇぇ???
と思う人も多いでしょうが、現在はこちらの人がより信玄の可能性が高いんだそうです。
血筋が良く、戦略家らしい知的な顔立ちで、信玄ファン増えそうですねw
あの長谷川等伯画のヒゲ達磨みたいなんは、畠山氏の誰か…という事らしいです
 
 
 戦国最強の武将は誰か…を語る時、昌幸の名前は出るものの、所詮は小豪族の長で、局地戦には強いけど、大軍を動かす器ではない…的な意見があります。
しかし、昌幸の幼少からの師は父:幸隆でなく、明らかに武田信玄でした。
 
 信玄の理念と思考、戦略と戦術を高度に受け継いでいる事は、徳川との上田合戦の兵の動かし方で明らかになります。
『あ奴は信玄公の戦い方をよ~う知っとるだわ…』 
…と気付いた徳川家康が、大坂の陣の際、昌幸が豊臣軍10万を動かす事を異様に怖れた理由がここにあります。
『こりゃ3倍5倍の兵を以ても勝てぬかも知れぬだで…』
三方ヶ原での恐怖が蘇ったのかも知れませんね。
 
 昌幸もそれを夢見た晩年でしたが、信玄同様に寿命には勝てず、ついに実現はしませんでした。
 
 
真田昌幸の足跡を巡る ~ 西上作戦