東海の城探訪 静岡県 浜松城 登城日2015.05.31

城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 不明(天守台残存・復興天守あり)
築城主 今川貞相
築城年 永正年間(1504 - 1520年)
主な城主 飯尾氏、徳川家康、堀尾氏、堀尾氏、井上氏、水野氏他
廃城年 明治4年(1872年)
遺構 石垣、天守台、土塁、堀、郭
指定文化財 浜松市指定史跡
所在地 静岡県浜松市中区元城町
天守構造 不明(天守台残存・復興天守あり)
築城主 今川貞相
築城年 永正年間(1504 - 1520年)
主な城主 飯尾氏、徳川家康、堀尾氏、堀尾氏、井上氏、水野氏他
廃城年 明治4年(1872年)
遺構 石垣、天守台、土塁、堀、郭
指定文化財 浜松市指定史跡
所在地 静岡県浜松市中区元城町
浜松城は政令都市:浜松の中心部にあります。
この地は古くは“曳馬”と呼ばれており、天竜川西岸(現在は流路が東に変わっているが)の東海道の宿駅として、その名が地名になっていました。
今川の時代から“曳馬城”が建てられ、今川家臣の飯尾氏が治めていましたが、“浜松”という名前になったのは、永禄年間の頃です。
この地は古くは“曳馬”と呼ばれており、天竜川西岸(現在は流路が東に変わっているが)の東海道の宿駅として、その名が地名になっていました。
今川の時代から“曳馬城”が建てられ、今川家臣の飯尾氏が治めていましたが、“浜松”という名前になったのは、永禄年間の頃です。

安藤広重作 東海道五十三次:浜松宿
城下と宿場が同居する浜松 江戸期には本陣10軒、旅籠90軒を数える大宿でした
天竜の川越人夫が焚火にあたる様子が川の近さを示していますね 城には三層の櫓が描かれています
城下と宿場が同居する浜松 江戸期には本陣10軒、旅籠90軒を数える大宿でした
天竜の川越人夫が焚火にあたる様子が川の近さを示していますね 城には三層の櫓が描かれています
永禄3年、“桶狭間の戦”で当主の今川義元が憤死すると、今川家の弱体化が始まり、三河の松平氏も自主独立を図ります。
新たに尾張の織田氏と同盟した松平氏は“徳川”と名を改め、東の遠江へと侵攻して来ます。
徳川家康は永禄11年(1568年)までには天竜川の西側を制圧し、曳馬城に入ります。
家康は東に向かう新たな拠点として曳馬城の拡張整備に入りました。
新城は曳馬城を北東の郭として取込み、南西方向に大きく拡張され大城郭で、新たに土地の荘園の名を採って“浜松城”と改名されました。
新たに尾張の織田氏と同盟した松平氏は“徳川”と名を改め、東の遠江へと侵攻して来ます。
徳川家康は永禄11年(1568年)までには天竜川の西側を制圧し、曳馬城に入ります。
家康は東に向かう新たな拠点として曳馬城の拡張整備に入りました。
新城は曳馬城を北東の郭として取込み、南西方向に大きく拡張され大城郭で、新たに土地の荘園の名を採って“浜松城”と改名されました。

浜松城縄張り図
古城:曳馬城は北東の郭として残されました
本丸北側が心許なく見えますが、此処には大きな池が広がる、後ろ堅固な城でした
古城:曳馬城は北東の郭として残されました
本丸北側が心許なく見えますが、此処には大きな池が広がる、後ろ堅固な城でした
家康は元亀元年(1570年)あたりには遠江全域を平定し、居城の岡崎城を嫡子:信康に渡して、正式に浜松城を居城にします。
そうなると、西に勢力を拡げる武田氏と直接渡り合う事態に直面します。
この頃の武田軍は“戦国最強”と恐れられ、反信長勢力が最も頼りとする存在です。
元亀3年(1572年)、その武田信玄が大挙して来襲します。
この時は領内を蹂躙され、成す術もなく存亡の危機に陥った家康ですが、この時は運よく信玄が寿命を使い果たした事で救われました。
この頃の武田軍は“戦国最強”と恐れられ、反信長勢力が最も頼りとする存在です。
元亀3年(1572年)、その武田信玄が大挙して来襲します。
この時は領内を蹂躙され、成す術もなく存亡の危機に陥った家康ですが、この時は運よく信玄が寿命を使い果たした事で救われました。
ここでシッカリ踏ん張れた事が、徳川幕府につながります。

祝 国宝認定!!
浜松城の兄弟城:松江城はこのたび国宝に認定されました
石高に合わせて浜松城を拡大した姿に見えなくもありませんね。
「松江」という地名、由来がハッキリしないそうですが、
堀尾氏が浜松を想いながら松の綺麗な江(入江・湾)で付けたに違いありませんw
浜松城の兄弟城:松江城はこのたび国宝に認定されました
石高に合わせて浜松城を拡大した姿に見えなくもありませんね。
「松江」という地名、由来がハッキリしないそうですが、
堀尾氏が浜松を想いながら松の綺麗な江(入江・湾)で付けたに違いありませんw
豊臣秀吉の世になると家康は江戸に引越し、後には近江佐和山から堀尾吉晴が入ります。
秀吉は家康の抑えに東海道沿いの要地に、池田輝政、山内一豊ら信任の厚い大名を配置して行きますが、吉晴もその一環でしょうね。
その為か、吉晴は浜松城の主郭部分を石垣で強化し、天守を造営しました。
堀尾氏の治政は11年続きますが、“関ケ原”後には出雲の月山富田城に加増転封となります。
秀吉は家康の抑えに東海道沿いの要地に、池田輝政、山内一豊ら信任の厚い大名を配置して行きますが、吉晴もその一環でしょうね。
その為か、吉晴は浜松城の主郭部分を石垣で強化し、天守を造営しました。
堀尾氏の治政は11年続きますが、“関ケ原”後には出雲の月山富田城に加増転封となります。
徳川政権の幕藩政治では、大御所:家康の居城だった浜松城、岡崎城は“出世城”として徳川の譜代大名が次々と藩主になり、明治維新期の最後の藩主は井上正直でした。

浜松城を歩く
浜松城は浜松駅の北約1kmにあります。
駅からはR157で近付くのが便利で、城址公園の緑を左手に見ながら、“コンコルドホテル”という高層ホテルに入る形で左折すれば、ホテルの目の前が広い公園の駐車場です。
この駐車場、市街の一等地にも拘わらず“無料”で解放されてます。
浜松市…太っ腹ですw
しかし、さすがに市の中心部だけあって、公園として残っているのは残念ながら、主郭と北側の池を埋めて出来た広場だけという構成です。
多くの遺構は市街化され、主に公共の施設に置き換わっていますね。
浜松城は浜松駅の北約1kmにあります。
駅からはR157で近付くのが便利で、城址公園の緑を左手に見ながら、“コンコルドホテル”という高層ホテルに入る形で左折すれば、ホテルの目の前が広い公園の駐車場です。
この駐車場、市街の一等地にも拘わらず“無料”で解放されてます。
浜松市…太っ腹ですw
しかし、さすがに市の中心部だけあって、公園として残っているのは残念ながら、主郭と北側の池を埋めて出来た広場だけという構成です。
多くの遺構は市街化され、主に公共の施設に置き換わっていますね。

浜松城の好きなアングル
手前の広場は西池を埋めて作った公園です 無理のないシックリ来る姿ですね
主郭を覆う森の上に、小ぶりな天守が顔を覗かせています。
浜松時代の家康が自前で建てたとすれば、まぁ妥当な大きさかなぁ…とも思える、適度な天守なのですが、史実は家康の頃には天守も天守台も無かったそうです!
浜松時代の家康が自前で建てたとすれば、まぁ妥当な大きさかなぁ…とも思える、適度な天守なのですが、史実は家康の頃には天守も天守台も無かったそうです!
家康をナメてはいけませんねwww

この角度で見ると、復興天守より天守台がふた回りほど大きいのが判ります
載ってたのはたぶん4層5階天守だったでしょうね
では、誰が建てたの?という事になりますが、堀尾吉晴が石垣を積んで、天守を建てただろう…と言われています。
現存する天守台の構造や、前述の転封背景から、たぶん有ったんでしょうね。
もちろん現在の建物はコンクリート製の復興天守で、昭和33年製との事ですが、無加工の自然石を野面に積んだ石垣に、さも有りそうな外観と規模の天守です。
現存する天守台の構造や、前述の転封背景から、たぶん有ったんでしょうね。
もちろん現在の建物はコンクリート製の復興天守で、昭和33年製との事ですが、無加工の自然石を野面に積んだ石垣に、さも有りそうな外観と規模の天守です。

金網にピントが合ってしまい見にくいけど、1階の屋根のラインと石垣のラインが合いません。天守台は不等辺の矩形であり、この事は望楼型天守が有った事を白状しています。
まだ文化庁の規制も緩い時代で、史跡の上にあり得ない規模の復興天守・模擬天守がどんどん建てられる中、浜松市が充分な時代考証と良識に基づいて建てたモノなので、何処からみてもシックリ来る良い天守(外観)です。

復元天守門 江戸時代の意匠で、石垣とのバランスも悪いですw
惜しいのは近年に復元された“天守門”の意匠で、これは江戸時代の指図に基く本格的な木造復元なのですが、全面白漆喰仕上げの門は明らかに天守との時代のギャップを見せてくれますw
時代を門に合わすと天守は無いし…難しい選択ですね。
時代を門に合わすと天守は無いし…難しい選択ですね。

戦国を感じさせる良い石垣ですが、葵紋は史実と違います