三方ヶ原の戦い ≪後篇≫
 
三方ヶ原の戦い…の続きです
 
 山県昌景が家康を追って浜松城の堀端まで達した時、城の門は開け放たれて篝火が焚かれ、静まり返っていたそうです。
家康の罠を感じた昌景は、突入を諦めて退いたそうですが…。
この話、どっかで聴いた事がある…と思ったら、“三国志”の“諸葛孔明の空城の計”のパクリですね。
江戸初期に創作されたものと思われますが、庶民が手軽に三国志を読める時代にはもう通用しません。
 
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浜松城
徳川家康が岡崎城に替わる新たな居城として造営しました。
今川氏の曳馬城をベースに拡張しましたが、武田信玄の侵攻を意識した城は水堀を持ち、大きく堅牢でした
 
 
 以前から述べていますが、六分の勝ちを最上とする信玄に家康の首を取る気は無く、完全に戦意を削ぐ事で目的は果たされています。
 ここに“西上作戦”の本来の目的を見出す事が出来るとも言えるのですが、その考えは武田の諸将には周知徹底されていたが故の退却だと思います。
この“上位下達”の一体感こそが武田の強さの源泉であり、信玄の魅力に依る所なんですね。
 
 
ここで余談をひとつ。
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三方ヶ原の南に今も『小豆餅』という地名があります。
城に逃げる途中の家康はふと空腹を覚え(またかよw)、道端の茶屋で老婆から小豆餅を求めて食べ始めます。
 そこへ山県隊の追手が迫ったので、すぐに馬に跨り脱兎のごとく駆け去ります。
代金を貰ってない老婆はそれを追い掛け、半里ほどで追い付いて、家康にイメージ 7
代金を払わせたそうで、その地は『銭取』という地名で今に残ります。
 速駆けの馬の時速は40km/hくらいにはなるから、老婆はウサイン・ボルト以上の速さで追掛けた???w
 
 おそらく追いかける老婆に追い付いた顔見知りの徳川の武士が居て、
 『おっ、茶屋の婆さん、何しとるだ?』
 『銭もらいに行くだよ!』
 『銭?… 家におらんと危ないだぞ』
 『と、とのさんに餅を差し上げただが、お代を貰っとらんだにィ!』
 『との? 殿はもういまごろ城に帰っとるだぞ』
 『ぐぬぬ…#$%&*@?!!!』
 『…わかった判った、ワシが払ったるだで。ほれ!』

こうしたやりとりが有ったのかも知れませんねwww
 
 
 ちなみに、家康が一矢報いたという“犀ヶ崖の戦い”も、後世の創話で、史実ではない様です。
 
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犀ヶ崖古戦場?
谷底は鬱蒼とした木々に覆われ、昼間でも不気味な感じがします
*犀ヶ崖
賽の河原に続く崖…という事で、その上の台地は古くからこの地域の墓地でした。
浜松城の北1kmにあり、逃げる家康を追った信玄は此処まで追掛けて陣を敷き、ここで首実験をおこなったそうです。
亡くなった多くの将士はおそらく此処に遺棄された事から、後に徳川の名誉の為にも“布橋での夜襲”などの伝説が生まれ、戦死した将士を弔う為の“遠州大念仏”になったんだろうと推察します。

 

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20mほどの段差の侵食崖ですね
上が公園になっていて、資料の展示館もあります
 
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やはり犠牲になった徳川の将士を慰霊するモノが集まっています
本多忠真は忠勝の叔父にあたり、家康の退却の犠牲になりました
 
 
 信玄が直接指揮した最後の戦い“三方ヶ原の戦い”は、痛快なほど信玄の一方的な勝利に終わり、大将の資質と家臣の統率力の違いを見せ付けます。
 家康は多くの家臣を失い、昌景に追い回されて、人生最大の恐怖と屈辱を味わいました。
しかし、それをただのトラウマとせず、今後の大きな糧にしたのが家康の凄さでもあります。
 信玄に率いられた、山県・小幡・馬場・小山田などの軍団はメチャ強くて怖かったけど、勝頼の代になるとそうでも無くなります。
それは何故なのか…? そうした分析を踏まえて家臣との関係を見直し、のちに山県・小幡を中心に武田旧臣を大量に採用し、武田の軍団編成を採り入れて、最強軍団を造り上げ、天下を手中にします。
 
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家康しかみ画像
初めての大敗北は家康の中に数多くの教訓を残しました
それらを忘れない様、敗戦直後の憔悴した様子をことさらに酷く描かせて、所持していました
 
 
 よく、“信玄が生き延びていたら…”というIFが語られますが、日本史の流れで見れば、信玄が理想とし、為すべき事をほぼ忠実に継承し実行したのが、徳川家康だった…という解釈が出来ると思います。
すべての原点はこの三方ヶ原の惨敗なんですね。
その為に無二の臣:石川数正が犠牲になる訳ですが、その話はまた別の機会に…。
 

⑦野田城攻略…へ続く