三方ヶ原の戦い ≪前篇≫
 
西上作戦最大の戦いが始まります…。
 
イメージ 1
武田軍の進路
浜松城の至近まで接近してデモンストレーションした事が判ります
一旦展開した大部隊が整然と迅速に一気に西へ反転する様を見てみたかったぁw
 
 
 二俣城の落城から3日後の12月22日、武田軍は隊列を整えて南に向かいます。
いよいよ浜松城に攻めて来る…と受け取った家康は、織田の援兵を得てもなお、堅城浜松城に拠って時間稼ぎの籠城戦に備えます。
 ところが、浜松城の北に広がる“三方ヶ原”に出て浜松城から視認できる距離まで来た武田軍は、急に進路を北西に取り、気賀方面に向かい始めました。

 

イメージ 2
三方ヶ原の風景
どんどん市街化が進んでいて、それらしき景色がありません
やっと見つけた空間ですが、名残りをとどめているかな?
 
 
 これに慌てた家康は、攻守両論の決せぬ中、追撃を決意します。
祝田の坂を下りて行く武田軍の後ろ備えに喰い付き、一矢報いる…という作戦ですが、華々しい戦勝は難しいとは理解しながらも、無傷の織田の援兵を貰いながら、見過ごす事への信長の反応や、少なくなった国人の更なる離反に繋がる事が気になったのでしょうね。
 
 しかし考えて見れば信玄が、殆ど無傷の万余の敵を背後に置き去りにする訳はなく、家康の置かれた環境や心理状態を完全に読み切って、“必ず追って来る”と確信した上で、野戦に持ち込む行動に違いありません。
『三増峠の戦い』で、北条に使った戦法と似ていますね。
*家康も後に関ヶ原で同様の戦術を使っています

 

イメージ 6
武田軍が布陣していたと思われる、根洗付近
すぐ先に祝田の坂があり、浜名湖畔に降りて行きます 
 
 果たして、家康が速駆けで三方ヶ原を駆け抜けようとした前方には、武田軍が“魚鱗の陣”で待ち構えていました。
 これに対して徳川・織田連合軍は戸惑いながらも“鶴翼の陣”で構えます。
大兵が少兵を包囲殲滅する際の陣形ですが、指示が一貫しにくい臨時編成の連合軍で、戦意の低い織田の援軍も含めて個々の隊を戦闘に参加させる為にはやむを得ない陣形でもあります。

 

イメージ 3
両軍の配置(浜松城展示資料より)
諸説ありますが、これを見ると徳川方は左翼に家臣を、右翼に織田の援軍を配してます。
注目すべきは佐久間信盛で、信盛は当時は織田の筆頭家老ですから、これは完全に家康を監視しています。
そうした命を信長から受けていた可能性は大ですね。
 
 
 先鋒の小山田信茂隊の突撃で夕刻に始まった戦いは、武田軍の分厚い攻撃に徳川の陣形はたちまち至る所で破られ、すぐに一方的な殺戮戦へと変わります。
 逃げる相手の尻尾を、後ろの有利な高所から叩くつもりが、相手は平地でこっちを向いて構えてた訳ですから、将兵の気持ちとしても“戦う前から勝負あり”ですね。 
 二俣城主だった中根正照をはじめ、有力武将が次々に討死にし、織田の援将:平手汎秀も討ち取られてしまいます。

 

イメージ 4
古戦場碑
三方が原墓園の駐車場にありますが、戦場はハッキリとは特定出来てはいない様です
 
 
 家康は1時間もせぬうちに戦場を離脱し、夜陰に紛れて浜松城に敗走しますが、これを追ったのが武田軍最強と言われた山県昌景隊で、家康の旗本を次々に討ち取り、かろうじて家康が浜松城に辿り着いた時には、供回りの数僅か数名という惨敗でした。
 
イメージ 5
山県昌景画像
五尺に満たない小男だった様ですが、旧来の武田の赤備えを指揮し、おそらく最前線の一部隊としては、戦国最強かも知れず、敵方には恐怖の的でした。
兵の優劣というより、昌景自身が戦局を見ながら次の信玄の采配を予測して兵を動かしていた為、常に組織的に先手で戦場を支配できたから…と考えます。
そうした信玄との阿吽の指揮は信玄に最も信頼され、北条や徳川が最も怖れた男は、間違いなくこの人だった事でしょう。
*下に居るのが武藤喜兵衛尉昌幸です
 
 
 夏目吉信、鈴木久三郎らが犠牲になって時間を稼いだそうですが、城に戻った家康は『山県という者、恐ろしき武将ぞ…』とブツブツ呟きながら入って来ましたが、近臣に指摘されるまで、脱糞してる事に気が付いていませんでした。
 
 日没で武田の組織的な掃蕩戦は出来なかったと思われますが、わずか2時間の戦闘で家康が失った兵は2千にものぼり、しばらく再起不能なダメージでした。
 
 
≪後篇≫へと続く