二俣城の続きです…。
徳川信康の武田内通の真偽については、
・男子のできない徳姫を信康が詰った夫婦の不仲説
・織田の姫と今川の姑は折り合いが悪かった、嫁姑説
・出来の良い信康が一部の家臣に担がれた、家臣の派閥争い説
・家康は信康の容貌が嫌いで、粗略にした為に信康が反発した、親子不仲説
・男子のできない徳姫を信康が詰った夫婦の不仲説
・織田の姫と今川の姑は折り合いが悪かった、嫁姑説
・出来の良い信康が一部の家臣に担がれた、家臣の派閥争い説
・家康は信康の容貌が嫌いで、粗略にした為に信康が反発した、親子不仲説
などが語られますが、信長が娘可愛さに横槍を入れたりする訳もなく、家臣が処断されてない事から、派閥争いでもありません。
家康自身は信康をとても信頼していて、関ヶ原の戦で秀忠軍が遅参した時には、『信康さえ生きておれば、こうした失態は無かったものを!』…と、しきりに悔しがったそうです。
家康自身は信康をとても信頼していて、関ヶ原の戦で秀忠軍が遅参した時には、『信康さえ生きておれば、こうした失態は無かったものを!』…と、しきりに悔しがったそうです。

徳川信康画像
徳川家臣団の期待の貴公子も、僅か20歳で生涯を終える事になります。
家康はこの後多くの男子をもうけるも、正妻は持ちませんでした。
そう考えると、信長の真の狙いは家康そのものしかなく、家康にもひとつだけ思い当たる事がありました。
元亀3年、武田信玄の西上作戦で侵攻を受けた折、家康には信玄からも足利義昭からも誘降の使者が頻繁に訪ねていたそうです。
同盟者を懐柔し寝返らせるのは常套手段ですからね。
結局は同盟の義を重んじた家康ですが、徳川存亡の危機に信長からはさしたる援軍も来ず、『棄て殺しにされる』危機感に家中の不満も沸騰し、正直迷いに迷ったと思います。
その結果、つい信長に対しても舌鋒鋭くなってしまいました…。
同盟者を懐柔し寝返らせるのは常套手段ですからね。
結局は同盟の義を重んじた家康ですが、徳川存亡の危機に信長からはさしたる援軍も来ず、『棄て殺しにされる』危機感に家中の不満も沸騰し、正直迷いに迷ったと思います。
その結果、つい信長に対しても舌鋒鋭くなってしまいました…。
信長からしてみれば、『苦しいのはワシとて同じこと、こんな時に泣き言を言うだけでなく、織田と武田を天秤に掛けおって!』となったのでしょうか。

清瀧寺の信康廟
思いがけぬ信玄の死で、一旦は静まっていたその感情ですが、天下が手中になる事が見えて来た時に、改めて家臣とは違う同盟者:徳川家康の存在感が疎ましく思えます。
『今後(臣下として)ワシについて来るのか来ないのか、相応の代価を以て示せ!』
家康は信長の真意をそう測りました。
『今後(臣下として)ワシについて来るのか来ないのか、相応の代価を以て示せ!』
家康は信長の真意をそう測りました。
天正7年(1579年)8月末、まず築山殿が二俣城へ向かう途中の佐鳴湖畔で殺害され、次いで信康が9月15日、幽閉先の二俣城で切腹し果てました。
まだ20歳のこれからの若者でした。
切腹の際の介錯役は、服部半蔵正成に命じられましたが、半蔵は悔しさと哀しさに涙が止まらず、信康の首をどうしても落とす事ができません。
信康の苦しむ姿を見かねた検死役の天方道綱が代わって介錯したそうです。
後日道綱は家康の悲嘆に暮れる姿を見て、天方城主の地位を捨て、高野山に登って出家してしまいました。
まだ20歳のこれからの若者でした。
切腹の際の介錯役は、服部半蔵正成に命じられましたが、半蔵は悔しさと哀しさに涙が止まらず、信康の首をどうしても落とす事ができません。
信康の苦しむ姿を見かねた検死役の天方道綱が代わって介錯したそうです。
後日道綱は家康の悲嘆に暮れる姿を見て、天方城主の地位を捨て、高野山に登って出家してしまいました。

廟には信康を守る様に近臣達が共に眠ります
その後は信長の馬車馬の如く働いた家康ですが、天正12年6月、信長の招きで安土を訪れた際には、わざとらしく目の前で繰り広げられる信長の光秀に対する仕打ちを見せられ、悪夢の再現、明日の我が身を思い冷や汗ものだった事でしょう。
堺で『信長本能寺に憤死』の報を受けた時には、他の織田家重臣同様に、本当にホッとしたでしょうね。
堺で『信長本能寺に憤死』の報を受けた時には、他の織田家重臣同様に、本当にホッとしたでしょうね。
織田家中の後継争いでは織田信雄を支援して、織田家同盟者を装いますが、いざ天下を手中にした後は、信雄の子息に対しては2万石の“陣屋大名”にしか遇していません。
信長への積年の恨みと、犠牲を強いてしまった妻子への贖罪の想いが現れていますね。
信長への積年の恨みと、犠牲を強いてしまった妻子への贖罪の想いが現れていますね。
戦国とは、敗者にも勝者にも、本当に過酷な時代です…。
二俣城を歩く
新東名を浜松浜北ICで降り、R152で北上し、天竜川を渡ると二俣の町に入ります。
道なりに西へ曲がると、正面に見えて来るのが二俣城址の城山です。
城址を右手に見ながら、しばらく走ると『二俣城址』の看板が出るので、右折して入ります。
まっすぐ山に登る道を選ぶと、すぐに『旭ヶ丘神社』の駐車場になるので、ここに停めます。
ここは旧北曲輪の跡で、城の北の端になるので、ここを起点に南に続く連郭を歩いて見ます。
新東名を浜松浜北ICで降り、R152で北上し、天竜川を渡ると二俣の町に入ります。
道なりに西へ曲がると、正面に見えて来るのが二俣城址の城山です。
城址を右手に見ながら、しばらく走ると『二俣城址』の看板が出るので、右折して入ります。
まっすぐ山に登る道を選ぶと、すぐに『旭ヶ丘神社』の駐車場になるので、ここに停めます。
ここは旧北曲輪の跡で、城の北の端になるので、ここを起点に南に続く連郭を歩いて見ます。

観光駐車場から見る城山 ちょっと遠いから、近くまでクルマで行きます

城址公園案内図 川は少し遠のいてる様です

城址東斜面
向こうに見えるのは鳥羽山で、いつも攻城の拠点になりました。昔はこの間を天竜川が流れていました。

大手道は公園整備で面影を失っています

本丸広場と天守台

ついでに石垣覗き

天竜はすぐ西の足元を流れます
城山を降り、次は清瀧寺を訪ねて見ます。
二俣小学校の前に観光駐車場(無料)があり、北に200mほど歩くと清瀧寺山門が見えて来ます。
二俣小学校の前に観光駐車場(無料)があり、北に200mほど歩くと清瀧寺山門が見えて来ます。

清瀧寺本堂 ちょうどお参りで読経が流れていました

寺の成り立ちが書いてあります
清瀧寺の隣に、大正チックな二階建ての洋館があります。
『本田宗一郎もの創り伝承館』、二俣出身の本田さんの展示館(無料)の様です。
『本田宗一郎もの創り伝承館』、二俣出身の本田さんの展示館(無料)の様です。

旧二俣町役場を改装した記念館

本田さんはこの町の出身なんですね
中にはバイクなどの製品と共に、二俣での少年時代のエピソードが面白おかしく紹介されています。
その1
小学生の時、昼前にお腹が空いた本田少年は、昼を告げるお寺の鐘が待ち切れずに、教室を抜け出してお寺に行くと、勝手に鐘をついて、お昼にしてしまったそうですw
そういえば、清瀧寺の鐘に『勝手に鐘を突くべからず』の貼り紙があったなぁw
その2
勉強が大嫌いだった本田少年、成績が悪く、通知表に親のハンコが貰えないので、消しゴムで自分で“本田”の印を作って押印して提出しました。
これは大成功でしたが、友達にも頼まれて偽造したところ即バレてしまいました。
友達は佐藤君で、押印した印は裏文字に写っていたのだそうですwww
その1
小学生の時、昼前にお腹が空いた本田少年は、昼を告げるお寺の鐘が待ち切れずに、教室を抜け出してお寺に行くと、勝手に鐘をついて、お昼にしてしまったそうですw
そういえば、清瀧寺の鐘に『勝手に鐘を突くべからず』の貼り紙があったなぁw
その2
勉強が大嫌いだった本田少年、成績が悪く、通知表に親のハンコが貰えないので、消しゴムで自分で“本田”の印を作って押印して提出しました。
これは大成功でしたが、友達にも頼まれて偽造したところ即バレてしまいました。
友達は佐藤君で、押印した印は裏文字に写っていたのだそうですwww
もうこの人、サイコーですねw
こうゆう人が戦国時代に生まれてたら、きっと有名な大名になってたんでしょうね。
本田さんの強い者に屈しない、逆風をものともしないパワーとアイデア力は、なんとなく真田昌幸と通じるものがありますもんねw
本田さんの強い者に屈しない、逆風をものともしないパワーとアイデア力は、なんとなく真田昌幸と通じるものがありますもんねw