二俣城攻防戦
 
 一言坂で家康を追い払った信玄は、翌15日に予定通りに匂坂(さぎさか)城を囲んで抜くと、そのまま天竜川東岸を北上し、16日には二俣城に着きます。
ここにはもう、只来城を落とした馬場信春隊が包囲布陣していました。

 

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匂坂城跡…のあたり   遺構は何もなく場所は特定できませんが、稲荷社がありました
 
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天竜川東岸から二俣方面を臨む  遠州平野が山に変わる場所です
 
 
 二俣城は天竜川と二俣川が合流する崖端の山に築かれた堅城で、古くからの徳川譜代で、城主の中根正照は徹底抗戦を貫いて籠城しています。
無理な力攻めでのいたずらな損耗を避けたい信玄は、ここは持久戦を指示します。
  兵糧を絶った後は“金山衆”と呼ばれる坑夫にトンネルを掘らせ、城の直下で爆薬を破裂させたり… 心理戦を展開しましたが、効果はありません。
攻囲軍には11月初旬には三河経由の山県昌景隊も加わり、ここに全軍が集結します。

 

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二俣城天守台   遠江国を俯瞰する位置にあり、要害堅固な上に戦略上も重要な城でした
 
 一方の家康は、野戦では太刀打ちできないと判断し、しきりに信長への援軍要請を続けます。
『援兵なき場合は、不本意ながら武田の旗の元に加わり、美濃に攻め寄せる事になりましょう』的な脅し文句も含まれてた事でしょうね。
 
 この頃の信長は浅井の小谷城を攻めていましたが、信玄の遠江侵入の報を受けて岐阜に一旦戻っていました。
その隙を突いて朝倉義景が浅井の後詰めに北近江に出て来ていました。
信玄も秋山信友の別働隊を岐阜に近い美濃岩村まで進めており、おいそれとは大軍で救援に向えない苦しい状況です。
 
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信長が対応策を練った“岐阜城”
信玄、足利義明、本願寺顕如らによる信長包囲網はジリジリと効果を発揮し、全方面への対応に信長は苦慮します
 
 
 信長にしてみれば、武田軍はまだ農民兵主体なので、春には帰って行かざるを得ないから、ここは家康に持ち堪えて時間を稼いで欲しい所ですが、ここはどうも家康が持ちそうにない…と判断して、佐久間盛信、平手汎秀らの派遣を決めます。
 いずれにしても、切羽詰まった上での信長に対する“両天秤交渉”は、信長の逆鱗に触れ、後にとんでもないシッペ返しを受け、家康は大きな代償を払わされる事になります。
 
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城山の北側にある清瀧寺   家康の嫡男:信康の菩提寺です
 
 
 援軍の数には諸説あり、3千~2万と大きく異なります。
2万説では、岡崎、吉田などに分散配置としていますが、織田家の実状からはとうてい無理な数で、その後浜松籠城策を取った事、三方ヶ原の負けっぷり、野田城に援軍を出せてない…等々を総合すると、最少の3千に近い数字では無かったろうか?
 
 そうこうしてるうちに、二俣城攻防戦はクライマックスを迎えます。
二俣城の城内には水の手が無く、天竜川にせり出した“水の手櫓”があり、給水はすべてこの櫓から行われていました。
 
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清瀧寺に復元されている二俣城“水の手櫓”  こうした構造の櫓から釣瓶で川の水を汲み上げていたそうです
 
 
 櫓の柱は川の水中に直接建てられており、これに眼を付けた信玄は丸太を筏に組んで上流から流し、櫓の柱に当てる事で櫓を崩壊させてしまいます。
 水の手を失った二俣城は、その後も耐えますが12月19日には城兵の助命を条件に遂に開城降伏し、正照以下は浜松城に落ちて行きました。
 
 二俣城の開城で、西遠江の城と国人の大半は信玄に帰属し、残すは浜松城のみとなりますが、そのタイミングで織田の援軍がようやく到着します。
 
 
⑤三方が原の戦い …に続く