苦になっていた“真田昌幸”に久々に還って来ましたw
 
 永禄12年(1569年)初冬、相模の三増峠で北条を叩いた武田信玄は、翌年には駿河に侵攻し、ほぼ無抵抗で駿河を手中に収めます。
北条氏はこの頃に氏康が亡くなりますが、氏康の遺言もあり、氏政は“甲相同盟”を復活させ、駿河からは完全撤退しました。
 
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背後の北条と同盟した信玄は、足利義昭の織田包囲網を使って信長を釘付けにし、徳川領へ侵攻した
 
 
 元亀3年(1572年)10月、信玄は今度は遠江、三河の徳川領に狙いを定め侵攻を開始します。
“信玄西上作戦”と呼ばれる侵攻で、戦国の英雄:武田信玄の強さを後世に伝えたと共に、信玄最後の戦いにもなりました。
 
 この作戦の当面の目標は、武田領に境を接する徳川家康を叩きのめす事ですが、信玄は用意周到に環境を整備し、満を持しての出陣でした。
 前述の様に背後の北条と同盟を結んだのを手始めに、北の上杉謙信に対しては、本願寺顕如に依頼して越中で大規模な“一向一揆”を起こさせて釘づけにした上、北国が雪に閉ざされるタイミングを測っての出陣です。
 
 徳川といえば、背後に織田信長が居て、いずれはぶつかる宿命の相手ですが、この頃の武田と織田の関係は比較的円満で、武田勝頼に信長の養女が嫁ぎ、織田信忠には信玄の娘(信松尼)が嫁ぐ“婚約”も結ばれています。
 信長にしてみれば、畿内の対抗勢力の平定に四苦八苦してる中、信玄や謙信に出張って来られたら堪ったもんではなく、必死に下手に出て同盟を維持していたのが実態の様です。
 信玄もこれに応えて、将軍:足利義昭からの“信長討伐”の御内書には一切応えていませんでした。
 
 こうした環境下での遠江、三河への侵攻の決断になりますが、信玄自身が自らの余命を悟り、同盟を破棄しても、宿願だった“京に孫子の旗を立てる最後の戦い”に討って出た…と思う他ありません。
信玄は朝倉、浅井両氏に信長の主力を畿内に足止めする様依頼してから出陣しています。
 
 この作戦での真田昌幸(武藤喜兵衛)の役割は“信玄の旗本”であり、本陣に近侍して、稀代の英雄の最後の采配の一部始終を脳裏に焼付ける事になります。
 
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先発隊 三河に侵攻
  9月29日、先発隊の山県昌景は3千の兵を率いて出発し、10月早々に三河に入ると、かねて調略してあった奥三河の国人領主“山家三方衆”と呼ばれる田峯城主・菅沼定忠、作手城主・奥平貞勝、長篠城主・菅沼正貞と合流し、約5千の兵力で柿本城を攻略します。
 さらに進路を遠江に向けると、伊平城を攻略して、11月初めには二俣城で信玄の本隊に合流します。

 

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菅沼正貞の長篠城
菅沼定忠、奥平貞勝を加えた武田軍は、ここに岡崎を睨む兵力を残し、5千の兵力で西遠江へと向かった
 
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最初に落された柿本城
城主:鈴木重時は遠江へ逃れる途中に山県勢によって討ち取られます
 
 
 山県隊の目的は、徳川方の兵力の分散にあり、三河岡崎方面に攻め込める位置を確保する事で、遠江への援軍の動きを牽制したものと思われます。
一説には、豊川河口の二連木城まで確保したとも言われますが、後に織田の援軍が浜松に到着している事から、事実ではない気がしますね。
 
 
②信玄現る! …に続く