日本100名城  №39  岐阜城    登城日 2015.05.17

 

 
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 城郭構造    山城
 通称       稲葉山城
 築城年      1201年(建仁元間) 
 築城主      二階堂行政
 主な改修者   斉藤道三、織田信長
 主な城主     斎藤氏、織田氏
 廃城年      1600年(慶長5年)
 遺構        曲輪、石垣、堀、土塁
 文化財指定   国の史跡
 所在地      岐阜県岐阜市金華山
 
 
 100名城の岐阜城です。
長良川沿いに濃尾平野が山地に変わる境目の稲葉山にある岐阜城の歴史は古く、鎌倉時代初期の1201年、二階堂行政がこの山に砦を築いた事に始まります。
行政は鎌倉政権の高級官僚で、“13人合議制”のメンバーでもあり、この地に所領を得ていた…という事でしょうね。
 砦は行政の4代後に廃城されますが、その後室町時代初期の1445年、美濃守護代:斎藤氏が修復して居城としました。
 1539年(天文8年)、時の守護代:斎藤利政(道三)は稲葉山山頂に城の建設を始めます。
…ということは、それまでの城塞・居館は稲葉山の一部の中腹あるいは尾根筋を活用した城だった…という事で、斉藤道三になって“全山”への拡張がなされたという事です。

 

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城と城下町の位置関係(パンフより)
峻険な山で標高差もあり、詰め城と見るのが妥当か…
 
 
 ここからの歴史は敢えて語るまでもないので端折りますが、斎藤道三は尾張の織田信秀との抗争を激化させ、道三の孫の龍興vs信秀の子の信長による『稲葉山城の戦』で信長が勝利した事で決着します。
 尾張に加え美濃を手中にした信長は、居城をここ稲葉山城に移し、更に拡張整備を始めます。
地名・城名も“岐阜”と改めて、天下人への道を歩み始めます。
“支配拠点”としての岐阜の適性が高かったのでしょうね。
 
 1576年(天正4年)、畿内を平定した信長はより京に近い琵琶湖畔に安土城を築いて拠点を移し、岐阜城は嫡子:信忠に与えられます。
信忠は岐阜を拠点に武田氏との戦いを主導しますが、1582年(天正10年)父:信長と共に“本能寺の変”に斃れてしまいます。

 

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発掘調査案内所にある城と城下の想像図
城にしては防御施設が脆弱で、京の町の風情です
 
 
 明智光秀討伐後の“清須会議”で美濃と岐阜城は信忠の弟:神戸信孝の所有と決まり、信孝は織田姓に復して入城しますが、織田旧臣の勢力争いの中で、柴田勝家と共に敗死し、岐阜城は池田恒興に与えられました。
*歴戦の雄:恒興は大垣城を修築して居城とし、支城:岐阜城は嫡子の元助が入ります。恒興が入らなかったのは、旧主:信長への遠慮か、実戦を想定した時に脆弱さを感じていたからか…?
 
 1591年(天正19年)、池田氏(輝政)は三河吉田に転封になり、代わって来たのは豊臣秀勝でした。
この秀勝は豊臣秀吉の甥で、大河ドラマの『江』ではEXILEのなんたらが演じていましたね。
*GOちゃん、岐阜にも住んでたのですw
 
 僅か1年後、秀勝が『朝鮮の役』の陣中で病没すると、岐阜城は織田秀信に与えられます。
この秀信とは、信忠の嫡子の“三法師”で、“清須会議”に秀吉に抱かれて颯爽と現れる“あの子”です。
 久々に織田嫡流の手に戻った岐阜城ですが、1600年(慶長5年)関ヶ原の前哨戦で徳川に与した豊臣恩顧の勢力に囲まれ、激戦となりましたが、旧知の攻将達の説得で降伏します。
*織田嫡流の血を自らの手で絶つ事は避けたい池田輝政が必死になって説得したとも…。

 

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山上の縄張り(パンフより)  平場が殆どなく、2千も籠もればイッパイですね
 
 
 戦後の論功行賞で岐阜は奥平信昌に与えられますが、家康は岐阜城の廃城と新たな居城:加納城の築城を厳命します。
歴史好きの諸兄なら判ると思いますが、家康はいろんな事を払拭したかったんでしょうね。
 
 

岐阜城を歩く
 
 斉藤道三、織田信長を描いた映画やドラマで、稲葉山上の居館で平服の道三や信長がはるか下界の城下を眺めるシーンをよく見ます。
岐阜城を“三大山城”みたいに言う人もいますが、果たして高取城や岩村城みたいな戦闘+生活の城なのか? はたまた単なる詰め城に過ぎないのか…この見極めが今回のテーマです。
 
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岐阜公園入り口の若き信長像  “うつけ”の頃だと那古屋か清須では?
 
 標高329mの稲葉山(金華山)。
岐阜市街の北側に屏風の様に座る山容は、岩山特有の自然の浸食に抗うかの様な特異な山塊を形成し、急角度で聳えています。
 比高差でも300m近いこの山の山頂には三層の復興天守があり、岐阜市のランドマークになっています。
 こうした天守は道三以来、ずっと存在してた様で、ルイス・フロイスや山科言継が訪れて、信長の饗応を受けた記録が残っている様です。
籠城時の軍事施設に留まらず、一定の日常の居住施設が険しい山の山上に有ったという事ですね。
 
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信長居館跡を調査してる案内所
係のお姉さんはとても親切でしたが…
 
 一方、麓には信長時代の平時の居館跡が発見されており、発掘調査で、あくまでも主体は山裾の平地であった事が判っています。
まずこちらを覗いて見ましょう。
 “発掘調査案内所”なる建物があるので、入ってみます。
調査の様子がパネル展示されていますが、出土品などはありません。
係員に『発掘現場を見る事はできますか?』と問えば
『非公開です』という残念な答え…。
今後、御殿などを復元して公開する予定は?』と問えば
『ありません…』
落胆の様子に見えたのか、パンフをいっぱいくれましたw
残念ながら、根小屋の様子はこれで想像するしかありません。
 
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こんな居館だった様です
信の頃まで此処を使ってた様ですが、“関ヶ原”の前哨戦で焼け落ちてしまいました。
 
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敷地の模型
 
 次いで山上の詰め城エリアを目指します。
山上へのアプローチは大きく三通りの登城道がありますが、どれも相当に厳しい道のりで、登りは“第四の道”ロープウェーを使う事にしました。
途中の遺構は歩いて下る事で見れるでしょう…という安易な考えwww

 

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ロープウェーで一気に山上へ  岐阜市街が一望です
 
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山上駅からさらに10分ほど歩いて…
 
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復興天守に到着です
昭和30年代の作ですが、意匠は史実とはかなり違う様です  少なくとも漆喰壁ではなかったでしょうねw
信長の天守は“関ヶ原”後も生き残り、解体して加納城の材料に使われたそうです。
 
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狭い山上は、かなりの賑わいでした。
 
 
 実際に立ってみると、この山は全山が安山岩の岩山で、ほとんど平場が取れません。
水の手も雨水を貯めた穴が穿ってあるだけで、非常時以外の飲用には適さない水質と思われます。
 信長の時は大きな権力もあり、象徴的に無理をしての山上での宴席も可能だったでしょうが、そうした機能は早期に廃れて、“詰め城”に特化した場所だったのでしょうね。
 
 
 
 さて、下山は歩いて降りてみます。
一番急だけど短い“馬の背登山道”を選びました。
パンフによると40分(登りの場合)の道のりです。

 

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最初の頃はまだ道らしかったけど…
 
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すぐにゴロゴロギザギザの岩の上をロープを頼りに降りていく羽目に…

 

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そんな道が延々と続き…
 
やっぱり、40分掛かってしまいましたwww
今後この道にチャレンジする人は、登山靴をお忘れなく!!