安濃津城の後編です…
 
安濃津城を歩く

 

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市営パーキングの前は本丸の東外郭の石垣が聳え、入り口の東鉄門跡には“目印の模擬櫓”が建っています
 
 
 安濃津とは津の旧名で、津=湊だから、安濃郡の代表的な湊として古くから栄えていた場所でした。
もちろん今も三重県の県庁所在地ですね。
 安濃津城址はその中心部にあり、城の敷地には市役所などの官公庁の庁舎が建ち並ぶ、江戸期の大藩の城址同様、維新以降に正常進化した城跡です。
 城址遺構としては、本丸と西之丸そして北側と西側の内堀の一部が『お城公園』として整備されて、遺されています。
 最寄駅は近鉄名古屋線の“津新町駅”で、約500mくらいの距離になります。
クルマだと城址の東隣に市営の広いパーキングがあり、便利です。
主に市役所に用事のある人が使う様で、公園内を通り抜けて行くのが近道のため、平日でも人通りは多い城址です。

 

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公園入り口の“東鉄門”跡
 
 クルマを停め、目の前の“東鉄門”跡から本丸内に入って行きます。
高麗門を持たない枡形の渡り櫓門だった様ですが、櫓台の上になぜか三層の模擬櫓が建っています…。
 安濃津城は平城だから、内外の高低差が少ないので、外郭には防塁を高く積み上げています。 本丸内に入るとその防塁の石垣にグルリ包囲された圧迫感を多少感じますね。
例えると、宇都宮城の土塁が石塁に変わった感じ…といえば伝わるかな?

 

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“縄張り図”  王道の輪郭式平城です。 内堀の広さが特徴的ですが、半分も残っていません
 
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丑寅三重櫓の櫓台  六間四方の大きな櫓です
 
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櫓間は三間幅の多聞櫓で繫がっていました
 
 
 丑寅三重櫓台から石塁上に登ってみます。
壇上の幅は約3間、四隅の三重櫓に加えこの幅でビッシリ多聞櫓が本丸を取り囲んでた様ですから、備えは厚いですね。

 

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恒例の“石垣覗き”  十間(18m)の高さも写真ではこう見えてしまいますw
 
 
 南西の角には天守台があります。
連立する2基の台に埋門の石垣がくっついてて、複雑な折れの美観を醸しています。
天守台への登り口が無く、壇上には立てなかったのですが、石積みからすると少し古いので、織田信包の頃のものかも知れません。
だが、確実に補修がなされてるので、高虎は天守を建てるか否か幕府の顔色を見ながら迷っていたのでしょうね。

 

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二基ある天守台を外側から見る  高虎のもの(1608年頃)ではない少し古い積み方ですね
 
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本丸内部から見ると、シッカリ補修の手が加えられています。  高虎の迷いを象徴してますね。
 
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しかしこの天守、一体どんな構造だったのでしょうか?  入り口と思われる構造はここしか有りませんが、幅の狭いスロープが途中まであるだけで、壇上には至っていません…。
 
 
 ここで少し話が逸れます。
徳川幕府の体制は“関ヶ原の戦”で概ね決まる訳ですが、徳川に味方した外様大名でも、味方のし方によって処遇は違っている事に気付きます。 
・伊達や前田など、元々大きな大名への大きな加増はありません。
・一方、味方はすれども、場合によっては敵対する気概も持つ大名には大き く加増して、取り込みを図っています。
池田輝政、黒田長政、福島正則、 加藤清正等がそうで、彼らは後に遠慮なしに大天守を構えていますね。
・逆に家康に過剰にへりくだって走狗の様に尽くした大名の加増は抑えられ ています。 浅野幸長、中村忠一等と共に藤堂高虎もこのグループで、や
 はり“小物感”は否めませんね。
 
 
  天守台の南側には本来なら、100m近い幅の広大な内堀が広がっていた筈ですが、現在は埋められて警察署になっています。
往時の風景を脳裏に想い描いてみると、名古屋城の御深井丸の北西の景色になりました。
あの工区は高虎だったかな?
 
 最後は西之丸で、今はは日本庭園になっています。
当時は本丸との間に空堀があり、土橋で繋がっていましたが、今は本丸の西側防塁を崩して堀が埋められ、繋がった広場になっています。
この構造が残っていれば本丸だけでも完璧だったのに…惜しい事ですね。

 

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西之丸跡の日本庭園
本丸へはこの出丸である西之丸を経由しないと入れませんでした。
会津若松城も同様な構造で、戊辰の折でも敵の侵入を防いだ有効なものですが、残念ながら残されませんでした。
 
 
 安濃津城は城址としての残存域はそう多くはないものの、残ったエリアの遺構はキッチリ残っています。
築城の第一人者:藤堂高虎が自身の為に造った、実に堂々とした王者の風格を持つ縄張りの姿も浮かんで来ました。
歴史的価値も含めレベルの高い城址ですが、“百名城”からはモレてしまっています。
模擬櫓の様な中途半端な整備もありますが、藤堂家とその城を誇りに思う市民の熱さが感じられないんですよね…。

 しかし津市民の間にも『津城を復元しよう!』の気運は有る様で、本丸北面の丑寅三重櫓から戌亥三重櫓にかけて復元するためのポスターがありました。
復元だから、木造ですよね? 浄財を用意しなければ…。

 

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天守のない安濃津城を代表する景観だった2基の三重櫓と多聞
復元は実現するのでしょうか?