日本百名城 №47 伊賀上野城 登城日2015.04.29

城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 不明(5重と言われるが完成間近に倒壊)
層塔型3層3階(木造模擬天守・1935年築が現存)
築城主 筒井定次
築城年 天正13年(1585年)
主な改修者 藤堂高虎
主な城主 服部氏、仁木氏、筒井定次、脇坂安治、藤堂氏
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 石垣、堀、武具蔵
指定文化財 国史跡
俳聖殿(国の重要文化財)
天守は伊賀市指定有形文化財
所在地 三重県伊賀市上野丸之内
天守構造 不明(5重と言われるが完成間近に倒壊)
層塔型3層3階(木造模擬天守・1935年築が現存)
築城主 筒井定次
築城年 天正13年(1585年)
主な改修者 藤堂高虎
主な城主 服部氏、仁木氏、筒井定次、脇坂安治、藤堂氏
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 石垣、堀、武具蔵
指定文化財 国史跡
俳聖殿(国の重要文化財)
天守は伊賀市指定有形文化財
所在地 三重県伊賀市上野丸之内
関西の百名城。 今日は藤堂高虎の高石垣で有名な伊賀上野城です。
伊賀上野城のある伊賀国は、室町時代には仁木氏が守護を勤め、城のある丘に城館を築いていたそうですが、室町中期にはもう没落し、以後は小規模な国人豪族が割拠しながらも、合議制で一致協力し、外敵に対処しながら自治権を守っていました。
天正7年(1579年)、織田信雄が8千兵で伊賀に攻め込みますが、伊賀衆のゲリラ戦法の前に大敗します。
翌年9月、今度は織田信長が自ら4万5千の兵で攻め込み、伊賀を平定しました。
信長は家臣の滝川雄利をに伊賀を与え支配しました。
天正7年(1579年)、織田信雄が8千兵で伊賀に攻め込みますが、伊賀衆のゲリラ戦法の前に大敗します。
翌年9月、今度は織田信長が自ら4万5千の兵で攻め込み、伊賀を平定しました。
信長は家臣の滝川雄利をに伊賀を与え支配しました。

天守から見た上野市街と伊賀盆地
冷涼な気候と粘土質の地質で、厳しい土地柄だったようです。
本能寺の変を経て豊臣政権になると、秀吉は脇坂安治に一旦伊賀を与えますが、すぐに大和郡山の筒井定次が入ってきて、定次は仁木古館跡に新たに築城をし、“上野城”と名付けました。
筒井氏の上野城は丘の最頂部に本丸を置き、三層の天守があった言われますが、詳細は判っていません。

筒井時代の天守台跡 といわれる高台

筒井時代の本丸を藤堂氏は城代屋敷として使いました
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは定次は徳川家康につき会津征伐に参戦します。
その間に上野城は西軍の攻撃にさらされ、奪われてしまいますが、家康の許可を得て引き返した定次によって奪還されています。
その間に上野城は西軍の攻撃にさらされ、奪われてしまいますが、家康の許可を得て引き返した定次によって奪還されています。
関ヶ原の戦い後、定次は本領を安堵され、徳川政権で伊賀上野藩を立藩します。
しかし慶長13年(1608年)、豊臣の包囲網を構築する過程で上野城を欲した家康は、定次を強引に改易に追い込み、伊予宇和島から築城の名手:藤堂高虎を転封させ上野城の強化を命じます。
しかし慶長13年(1608年)、豊臣の包囲網を構築する過程で上野城を欲した家康は、定次を強引に改易に追い込み、伊予宇和島から築城の名手:藤堂高虎を転封させ上野城の強化を命じます。

藤堂高虎の築いた高石垣
29.5mの高さは徳川大阪城に次ぐ高さだそうです

反りの少ない高虎の石垣も、さすがにこの高さでは少し反りを付けていますね。
高虎はすぐに大幅な改修に着手しますが、この時期には大坂城包囲の目的で、他にも丹波亀山城の改築、丹波篠山城、彦根城、名古屋城の新築が“天下普請”で並行して行われていました。
高虎はまず筒井上野城本丸の南側に新たに本丸を築造し、強固な石垣で囲います。
特に西側は大坂城にも匹敵する高石垣とし、広い水堀を配しました。
特に西側は大坂城にも匹敵する高石垣とし、広い水堀を配しました。

堀端から見上げる高石垣の威容
本丸上には天守台を築いて五層の天守を上げますが、この天守は完成間際の台風で倒壊してしまいます。
その後も工事は続きますが、すぐに“大坂の陣”となって中断し、豊臣家滅亡をもって不要となり、中止されました。
その後も工事は続きますが、すぐに“大坂の陣”となって中断し、豊臣家滅亡をもって不要となり、中止されました。

天守台に建つ模擬天守
完成間際に倒壊した五重天守の現場では、200名もの死者が出ました。模擬天守は地元の名士が私財を投じて建てた木造の三層天守ですが、天守台の半分も使っていないので、心なしか孕みが見られます…。
伊賀国と上野城は藤堂高虎の所有になりますが、高虎は新たに戦功で得た伊勢の安濃津城を居城としたため、上野城には城代を置いて、明治維新まで伊賀10万石の領地を支配させました。

江戸期の縄張り図
支城といえども多くの家臣が配され、本格的な城下町です

往時を偲ばせる寺家町の風情です