北勢随一の勢力を誇り戦国を果敢に戦った関氏5家の居城を訪ね終えました。
その後の5家について少しおさらいをしておきます。
その後の5家について少しおさらいをしておきます。

関本家(亀山城)
関盛信は蒲生氏郷の与力になった事で、氏郷について奥州白河を領したが、嫡子:一政の代になって氏郷が死ぬと、信濃、美濃と転封しました。
関ヶ原の戦で東軍に付いた為、その功で父祖の地:亀山に戻されますが、亀山は東海道の要地でもあり、10年後には伯耆黒坂に移封されています。
黒坂藩は元和4年(1618)、家中内紛で改易されますが、養子の氏盛が近江蒲生で5千石を貰い、旗本で存続しました。
関盛信は蒲生氏郷の与力になった事で、氏郷について奥州白河を領したが、嫡子:一政の代になって氏郷が死ぬと、信濃、美濃と転封しました。
関ヶ原の戦で東軍に付いた為、その功で父祖の地:亀山に戻されますが、亀山は東海道の要地でもあり、10年後には伯耆黒坂に移封されています。
黒坂藩は元和4年(1618)、家中内紛で改易されますが、養子の氏盛が近江蒲生で5千石を貰い、旗本で存続しました。
神戸家(神戸城)
7代:友盛の死で滅亡した神戸家ですが、6代:具盛の系統で蒲生氏に仕えていた高島政房が神戸家を復興し、紀州徳川家に仕えました。
この神戸家のご子孫は今も大坂で健在だそうです。
7代:友盛の死で滅亡した神戸家ですが、6代:具盛の系統で蒲生氏に仕えていた高島政房が神戸家を復興し、紀州徳川家に仕えました。
この神戸家のご子孫は今も大坂で健在だそうです。
国府家(国府城)
国府盛種のとき、秀吉の誘降に応じず織田信雄に従って落城しましたが、盛種は尾張清須に退去したそうです。小牧長久手の戦に参戦した記録もある様ですが、その後の行方は判りません。
国府盛種のとき、秀吉の誘降に応じず織田信雄に従って落城しましたが、盛種は尾張清須に退去したそうです。小牧長久手の戦に参戦した記録もある様ですが、その後の行方は判りません。
峯家(峯城)
峯盛祐が神戸信孝のもと伊勢長島の戦いに従軍し戦死して、嗣子がない為、領地召し上げで滅亡しました。信孝の関氏一党乗っ取りの最初の犠牲者とも云えますね。
峯盛祐が神戸信孝のもと伊勢長島の戦いに従軍し戦死して、嗣子がない為、領地召し上げで滅亡しました。信孝の関氏一党乗っ取りの最初の犠牲者とも云えますね。
鹿伏兎家(鹿伏兎城)
神戸信孝のもと四国征伐に加わっていた定義は本能寺の変で鹿伏兎城に戻り、徳川家康の“伊賀越え”を助けて亀山まで護衛していますが、信孝vs信雄の争いに巻き込まれ、鹿伏兎城は落城しました。
定義は京に隠れて客死しましたが、嫡男の定基は織田信包に仕え、次いで小早川秀秋、池田輝政と主を替えて家を存続しました。
“黄金バット”の作者:加太こうじさんが、鹿伏兎氏の子孫だと何かに書いてたのを見た記憶があります。
神戸信孝のもと四国征伐に加わっていた定義は本能寺の変で鹿伏兎城に戻り、徳川家康の“伊賀越え”を助けて亀山まで護衛していますが、信孝vs信雄の争いに巻き込まれ、鹿伏兎城は落城しました。
定義は京に隠れて客死しましたが、嫡男の定基は織田信包に仕え、次いで小早川秀秋、池田輝政と主を替えて家を存続しました。
“黄金バット”の作者:加太こうじさんが、鹿伏兎氏の子孫だと何かに書いてたのを見た記憶があります。
最期に関氏発祥の地、亀山市関町にやって来ました。

新所城址の城山(手前)とバックは“伊勢妙義”と勝手に呼んでる錫丈岳
関谷の奥の山地が平地に変わる場所で、関氏の初期の城だった“新所城址”がありますが、私有地の山林の為見学は見合せます。

東海道関宿は五十三次随一の宿場景観を保持していて、連日賑わっています
東海道関宿の 街道沿いには“瑞光寺”という古刹があり、此処が関氏の菩提寺となっています。
関盛信が正法寺山荘近辺にあった荒れ寺を発祥の地に移転して関氏の菩提寺としたのだそうですが、三河から招いた住職が徳川家康と幼なじみだった為、上洛の途中に度々立ち寄っており、その時に食したという伝承の“権現柿”が有名になっています。
関盛信が正法寺山荘近辺にあった荒れ寺を発祥の地に移転して関氏の菩提寺としたのだそうですが、三河から招いた住職が徳川家康と幼なじみだった為、上洛の途中に度々立ち寄っており、その時に食したという伝承の“権現柿”が有名になっています。

“瑞光寺”山門

関盛信のもの? と思われる供養塔
また少し西には“福蔵寺”という寺があり、こちらは神戸信孝の菩提寺になっています。
なぜ此処に?とも思いますが、この寺はもともと信孝の命で信長供養の為に建てられていたのだそうです。
なぜ此処に?とも思いますが、この寺はもともと信孝の命で信長供養の為に建てられていたのだそうです。

神戸信孝の菩提寺:“福蔵寺”
秀吉・信雄に攻められ、かつて平治の乱で源義朝が身内に殺害された古事のある尾張国野間で切腹し果てた信孝の首は、検死役の手で神戸城に届けられましたが、受取りを拒否されます。
仕方なく、検死役の縁故のある福蔵寺に持ち込まれて、ここで懇ろに弔われたのだそうです。
仕方なく、検死役の縁故のある福蔵寺に持ち込まれて、ここで懇ろに弔われたのだそうです。

山門脇に建つ信孝の墓石
やけに新しいのですが、墓石が古くなり伝承も曖昧でどれが信孝のか判らなくなり、平成になって新しく造られたそうです
信孝の辞世の句は『昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前』…
戦を経ての生死の是非には寛容な武門らしくない、強烈な怨念を感じますね。
秀吉は信孝が人質として差し出した生母や姉妹、妻、子女だけでなく、重臣の人質もすべて処刑したそうです。
戦を経ての生死の是非には寛容な武門らしくない、強烈な怨念を感じますね。
秀吉は信孝が人質として差し出した生母や姉妹、妻、子女だけでなく、重臣の人質もすべて処刑したそうです。
ドラマに描かれる秀吉は、信長をひたすら敬慕し、信長の無念を晴らす一念で未曾有の“中国大返し”を敢行した忠臣みたいなのが一般的ですが、信長の遺児達に対する仕打ちの過酷さを見ると、“どうも違うぞ…”という真実の顔が現れて来ます。