里見の城を歩く ⑩ 上総国 久留里城  登城日2014.12.07
 
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  城郭構造     連郭式平山城
  築城主      武田信長
  築城年            康正2年(1456年)
  主な改修者      里見義堯、大須賀忠政、黒田直純  
  主な城主         上総武田氏、里見氏、後北条氏、黒田氏ほか
  廃城年            明治5年(1872年)
  遺構               空堀、土塁、井戸
  指定文化財      なし
  所在地      千葉県君津市久留里
 
 里見の城を超駆け足で巡って来ましたが、いよいよ最後の久留里城です。
 
 久留里城は上総国守護代の武田信長が築いて、子孫の真里谷氏が支配していました。
真里谷氏が衰退すると佐貫城と同様に、里見義堯の上総侵攻奪取の対象となります。
義堯とその子義弘は久留里城を居城として再構築し、上総の平定から下総侵攻へと、北条勢力相手に激しく戦います。

 
 天文七年(1538)年の第一次国府台合戦で敗れた里見氏は一時安房に退去しますが、義弘がまた奪回します。
天文二十三年(1554)には北条一の猛将の綱成に二万の兵で囲まれますが、城下で激戦の末に撃退していますから、ある意味里見軍の強さが測れますね。
 
  永禄三年(1560)年の北条氏の大規模侵攻では氏照に攻められますが、この時は上杉謙信に救援を要請し、謙信の関東出陣で退却させました。
永禄七年(1564)の第二次国府台合戦で大敗した里見氏はまた安房まで退去し、久留里城は北条の城代が支配しますが、永禄十年(1567)の三船山合戦に勝つと上総の支配をほぼ確定し、天正年間の氏政の侵攻も義康が余裕で撃退しています。
 
 豊臣秀吉の小田原攻めに戦略を間違えて、参陣しなかった里見氏は上総下総の所領を全て取り上げられてしまいます。
新たな領主の徳川家康は久留里城に旗本の大須賀忠政を3万石で入れ、幕藩体制では土屋忠直が2万石で入るも、その後に改易され、酒井氏の代官支配の後、黒田直純が3万石で入城し再び久留里藩を復活して、明治まで続きました。

官兵衛の黒田とは別の氏族です

 

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資料館にあるジオラマ
調査研究が進んでないのか、シンプルですね  詰め城には殆ど郭塁がありません
  
 
 
 
久留里城を歩く
 大多喜から山間を縫って西行六里。小一時間走って久留里に着きました。
久留里城はその大半の面積が麓の根小屋のエリアにある、戦国の城にしては新しい形式です。里見義堯が最盛期の居城として整備しただけに、万に近い兵を収容する、攻撃性の強い城だったのでしょうね。
 現在は市街化農地化が進んで、城址公園として整備されてるのは詰め城の山の部分だけです。
 
 さっそく城址へと向かいます。
入り口が住宅地で、少し狭くなっているから、どうなる事かと思いましたが、住宅地を抜け、城山の尾根を潜るトンネルを過ぎると、広い駐車場が待っていました。
 
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 広い駐車場  林業体験施設もあります
 
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登城路
舗装道路がかなり上まで整備されてて、遺構の消滅もあったのでは…?
 
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尾根筋の道沿いに残る戦国色の強い遺構
 
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本丸下には水の手
水に困る事は無いにしても、兵が籠もる郭が少ない…
 
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模擬天守
実際は手前の土壇上にありました。 もう一回り小さかった様ですね。
絵図が無いから浜松城を模したそうです。
  
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ホンモノの浜松城
 これも模擬天守ですけどね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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下の平地まで城域はありました
  
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搦め手を守る小郭
  
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こんな伝承もあります
  
 戦国大名として関東制覇さえ視野に戦った里見氏が、上総の覇権を賭けて巨大勢力の北条氏とな正面から何度もぶつかって、落とされなかった城が久留里城です。
よくよく考えると、戦国の世にそんな城って稀有ですよね。
 
 短い時間で城址のその強さの秘密みたいなのに迫るのは土台無理ですが、大軍で囲んでも全軍が統一行動がしにくい山がちなこの立地にも秘密があるかも知れません。
守る方は山上の支城との交信は容易だから、統率は可能ですもんね。
模擬天守から見下ろしながら、ふとそんな事が頭をよぎりました。