里見の城を歩く ⑨ 上総国 大多喜城  登城日2014.12.07
 
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  城郭構造   連郭式平山城
  築城主    真里谷信清
  築城年          大永2年(1521年)
  主な改修者    正木時茂、本多忠勝、阿部正次
  主な城主       真里谷氏、正木氏、本多氏、阿部氏
  廃城年          明治4年(1871年)
  遺構             空堀、土塁、井戸
  指定文化財    千葉県史跡(本丸跡)
 所在地   千葉県夷隅郡大多喜町
 
 
 万木城の次は大多喜城に向かいます。
一旦R465に戻り、西に30分も走れば大多喜の町に入ります。
大多喜城は江戸時代も残ったので、維新後も城下町がそのまま発達した形で今に雰囲気を伝えています。
 
 
 大多喜城の前身は小田喜城と言い、 真里谷信清が築いて真里谷氏の拠城としました。
真里谷氏については勝浦城の所で触れましたが、城域は後の大多喜城とは少し異なる様で、北に連なる山上が本郭だった様です。
ただ、現大多喜城も城域の一部に含まれる様ですから、広大な城ですね。
 
 天文13年(1544年)、真里谷氏の弱体化で里見氏の将:正木時茂に攻められて落城し、以後は正木氏の拠城になりますが、後の正木憲時の代になって、里見義頼と梅王丸の争いで梅王丸に加担して、義頼に滅ぼされてしまいます。
小田喜城には里見の代官が入り、管理した様です。
 
 小田原征伐後に里見氏が安房に押し込められると、上総以北は徳川家康に与えられ、家康はこの城になんと、本多忠勝を10万石で配置します。
忠勝は里見の北上を防ぐ為に城を大改修し、名も大多喜城に改めました。
大人げないというか、家康がいかに里見氏を警戒してたかが判りますね。
 関ケ原が終わり、徳川の世になって、里見氏も廃絶に追い込むと、関ケ原の功のある忠勝には伊勢桑名が与えられ、大多喜には忠勝の二男:忠朝が5万石で残りました。
 
 話がまた少し離れます。
本多忠朝は父:忠勝の気性をよく受け継いだ猛将で、関ケ原でも大活躍しましたが、大坂冬の陣に出陣した折に深酒をしてしまい、翌朝の会戦に遅れた事を家康に厳しく咎められてしまいます。
 これを深く恥じた忠朝は夏の陣では死に場所を求めるかの様に奮戦を続け、最後は毛利勝永の陣に突っ込んで戦死してしまいました。
 お気に入りだった武将の死を悼んだ家康は、子の政勝に本家:桑名(10万石)を上回る大和郡山15万石を与えて、功に報いました。
*大坂では『酒絶ちの神』として今も祀られているそうです
 
 大多喜藩は甥の政朝が継ぎますが、本多家は竜野に転封になり、以後は阿部家の支流~大河内松平家が2~3万石で繋ぎ、明治に至ります。
 
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大多喜城のジオラマ
本多氏の頃か 水堀のある新しい縄張りです
  
 
 

大多喜城を歩く
 
 大多喜の市街に入ると、もう正面に立派な模擬天守が見えてきます。
城壁が石垣でなく、他の櫓や門などは無いので、ちょっと大き過ぎる感じがしますね。
 まず大多喜駅を目指して、駅の線路沿いを南へ下ります。 大多喜は城下の古い家並みも残っていて、観光施設も多い様で、観光客が多く、案内看板も充実しています。
『大多喜城』の看板に沿って線路を渡り、外郭を南から廻り込む形で登って行けば、二ノ丸下の駐車場に着きました。
 百台は停まる広さですが、八割方は埋まっています。 土産物屋や軽食の店もあり、これは完全に観光地、百名城並みですw
 ここで軽く昼食を摂って、歩きます。

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二ノ丸下の公園エリア入り口
 
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二ノ丸入口
城主の御殿はここにありました
 
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二ノ丸北壁は削崖で、里見の名残りを感じます
 
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模擬天守
徳川譜代のスタンダード的な姿の天守です
 
  
 天守の有無に関しては、絵図が残るので、たぶん有ったのでしょうが、絵では二層の石の基壇もないシンプルなものでした。
家康の指名で忠勝が入り、築城した目的を考えれば、天守にそう金を掛ける筈もありませんね。
 
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その絵図看板です
 
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城下の風景
 
  
 本多忠勝のプロデュースも、本丸周辺はあまり手をつけず、外郭の強化を主体にした様で、里見(厳密には真理谷氏)の城の名残りはそこかしこに感じられました。
 10万石で、かなり無理して整備した城は、後に続いた2~3万石の藩には荷が重く、江戸時代にはその多くが放棄された状態だった様で、将軍名で、『ちゃんと城を整備しろ』という命令書も出されたそうです。