里見の城を歩く ⑤   安房国 館山城    登城日2014.12.06
 
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  城郭構造   連郭式山城
  築城主    里見義頼
  築城年          応仁年間
  主な改修者    里見義康
  主な城主       里見義康、忠義
  廃城年          慶長19年(1614年)
  遺構             曲輪、堀切、空堀・水堀の一部、模擬天守
  指定文化財    なし
 所在地   千葉県館山市館山
 
 里見の基盤を造った稲村城の次は 終焉の城となった館山城です。
 
 館山城は岡本城を本拠にしてた頃の6代:義頼が築城したとなっていますが、高嶋湊を見下ろす独立峰の丘陵は築城の適地であり、古くから安西氏の城館が在ったとも言われます。
 7代:義康の時に、安房一国に押し込められた事により、西端の岡本より領土を俯瞰しやすく、拡張も容易な館山城を大改修して移った様です。
 小さいながらも国持ち大名の義康は、それなりの格式と体裁を整える必要を感じ、また直前まで上総も支配していた事から家臣団も多く抱えており、関ケ原の軍功で石高も12万石に増えた事から、三層の天守を揚げ、惣構えの本格的な城郭を造った様です。

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眼下に館山城下と浦賀水道
  
 
 しかし幕府にとって里見氏は相当に目障りな存在だった様で、『江戸湾への敵の侵入は里見が防ぐ!』的な思いも、『江戸の庭先に居座って、高所から幕府の船の出入りを見張ってる…』みたいに思っていた様です。
義康が死に忠義の代になると難癖をつけ、正室の実家の失脚に併せて改易に追い込みます。
館山城はすぐに破却され、天領となりました。
 
 後に館山には稲葉正明が1万石で入封し、その後1万3千石まで加増されて明治維新を迎えますが、稲葉氏は里見の城址には手を付けず、麓に居館を建てて陣屋大名に終始しました。
 そうなると里見の遺構がかなり残っていそうですが、先の大戦の終盤、B-29の進入路だった城址には高射砲陣地が置かれ、その際に本丸周辺は原型を留めないほど改変されてしまいました。
 
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ここから登って行きます
  
 
 
館山城を歩く
 稲村城から館山城へは僅か5kmほどの距離ですが、周辺環境は一変し、市街地の中の“江戸時代の城郭”の風情になっています。
本丸跡には“復興”のコンクリート製ながら天守が上がり、良いランドマークになっています。
  城山一帯が城址公園として整備され、市民の憩いの場になっていますが、公園の駐車場にクルマを停めて、歩いて見ます。
 
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孔雀園
ここは新二ノ丸で、忠義の屋敷がありました
  
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横穴墓?   いや、防空壕跡に千点!
  
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二ノ丸跡
ここは義康の屋敷跡で礎石が残っています
 
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八遺臣の墓
八犬士ではありません。元藩士が倉吉の墓から分骨してもらい、ここに埋葬しました。 
馬琴も訪れて手をあわせた事でしょう。
  
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復興の三層天守  三層四階の層塔型です。
里見時代に実在したものの、絵図が無く、時代と経済力の推測から犬山城をモデルにしたそうです。
壁が黒下見板と漆喰の違いの他、ズングリ武骨な感じですね。
中は市立博物館分館で『里見八犬伝』を展示しています。
 
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市立博物館本館
城址公園内にあり、館山の歴史を展示しています。
里見氏の史実中心で、義成の存在もキッパリ否定しています。
稲葉氏や市内の他藩領の資料もあり、この時は旧館山北条町の企画展示をしてました。
*電池切れで写真が撮れず借用します
m(_ _)m
 
 
 
 
 古地図を片手に歩いて見ましたが、本丸は天守台だけだったものを面積を稼ぐ為に10m以上は低く削り取っていますね。
本丸御殿跡くらいの広さがあります。
天守の位置も従来は南東にあったものを、市街地から見えやすい北西に変えてあります。
 一方で、里見の城を彷彿とさせるのは北東に延びる尾根筋で、痩せ尾根を小郭と堀切が連続して残ります。
この尾根の最後に殉死した八忠臣の墓が在るのにホッとしました。
 
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