この秋、群馬県内の城址を集中的に訪ねて廻りましたが、主要な城址をほぼ廻り終えました。
 
 戦国初期、山内上杉氏の地盤だった上野は、その後の北条氏の侵攻を契機にして、上杉、北条、武田の大勢力がせめぎ合う合戦場、“三国志”の舞台と化してしまいます。
その過酷な環境の中で、上野の国人領主達はどう生き抜いて行ったのか…。
ここに興味を持って、廻ったのですが、今回の忘備を目的にまとめ版を作ったので、ブログにUPさせてもらいます。
 
 1546年の河越夜戦から、1590年の徳川家康入封まで45年間の主な動きと、主要な大名の版図の変化を時系列で追っています。
 
尚、素人仕事につき、独善の解釈や多少の齟齬はありますので、ご容赦ください。
 
 

 


 

【河越夜戦】
1537年   北条氏は扇ヶ谷上杉氏の河越城を奪取し、武蔵国支配の意志を決定的にする。
1546年   追われた扇ヶ谷上杉氏の上杉朝定は山内上杉、古河公方と連合し、北条綱成の籠る河越城を
                   包囲、後に古河公方勢も加わり8万の兵で囲む。
       北条氏康は8千の援軍を率いて到着。兵力差で気の緩んでいた連合軍に夜襲を掛け、北条氏
                   が圧勝した。
       扇谷の上杉朝定は戦死し、扇谷上杉氏は滅亡。
 
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【小田井原の戦】
1547年     上杉憲政は武田信玄に攻め込まれた信州佐久の笠原氏救援の為、信州に出陣、小田井原で決
                   戦に及び大敗した。
        この出陣には長野業正ら重臣は反対したが、強行しての敗戦は、憲政の指導力を大いに弱め
                   た。
 
【上杉憲政逃亡】
1551年     武蔵を掌握した北条氏が平井城を攻略、上杉憲政は拠城を厩橋、白井と引きながら抗戦する
                 も、離反者が相次いぎ、1552年にはついに長尾景虎を頼り越後へ逃亡した。
                 国峯城の小幡氏は武田へ従属した。 
 
【氏康、古河公方を掌握】
1552年      古河城を攻めた北条氏康に古河公方:足利晴氏が降伏、北条の血を引く義氏が新
たな公方
                  になり、晴氏は幽閉された。
 
【氏康、信玄と同盟】
1557年   北条・武田に今川も含めた甲相駿三国同盟立、 これにより北条氏は関東での戦線への集中
                  が可能になった。
 
【氏康、上野を平定】
1559年    抵抗していた上杉勢の長野、横瀬、由良、佐野ら諸氏も全て北条氏に服属する。
 
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【上杉政虎の侵攻】
1560年          憲政の意を受けた上杉政虎がついに三国峠から侵攻、旧上杉方諸城を奪回し、厩橋城で越
                  年する。
 
1561年      旧上杉家臣や反北条勢力に檄を飛ばし、10万の兵力を集結し武蔵国に怒涛の侵攻。         
                    北条氏は籠城戦法で対処するが、3月には相模の小田原城を包囲される。
                  しかし、折からの飢饉で兵糧が不足し、諸将からの撤兵要求が強く、志気は必ずしも高くな
                  かった。      
                甲相同盟に基き、川中島で武田の攻勢が始まったため、包囲を解いて越後に帰国を決め、
                途中の鎌倉で関東管領就任式を行ない上杉輝虎を名乗る。
     8月、第4次川中島の戦い。稀に見る大激戦で双方に甚大な損害。
 
【北条・武田の反撃】
           11月、吾妻郡から武田勢(真田幸隆)が侵攻して来て白井城まで占拠。

                北条氏康も武蔵で反撃を始め、松山城を包囲する。
 
【上杉輝虎再度侵攻】
                  積雪の三国峠を越えて再度出陣、唐沢山城などを攻撃し厩橋城で越年する。

                  箕輪城主:長野業正が死去。
1562年        輝虎、館林城を攻め赤井氏を滅ぼす。唐沢山も攻めるが途中で越後へ撤兵。
                  北条氏康、武田の援軍を得て攻勢を掛け再度松山城を囲む。
 
【上杉輝虎再々度侵攻】
     12月、輝虎は雪を推して上野出兵、沼田城で越年する。
       この後輝虎は毎年の様に農閑期には関東に侵攻し、北条氏に奪われた城を奪還するも、農繁
      期には北条氏が反抗に移り、その間で容易に鞍替えして難を避ける関東諸豪族の軽妙さもあ
      り、攻防は一進一退で推移する。 
       この年は拠点の厩橋城に重臣の北条(きたじょう)高広を城代で常駐させる事にし、帰国
      した。

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*甲斐を本拠地にしながらも、信濃が経済基盤だった信玄にとって、多くの兵を養える上野は大きな脅威でした。
ここを上杉なり北条なりに独占されると、大兵を西に動かす事は叶いません。緩衝地帯としての西上野へのコダワリはその為で、これに費やした5年の歳月は致命傷になりました。
信玄の天下人の夢を摘み取ったのは長野業正だったのです。
 
【武田信玄が上野に本格侵攻】
1565年 5月、将軍:足利義輝が三好・松永に謀殺される。
     6月、碓氷峠から侵攻した信玄が倉賀野城を攻略、続いて箕輪城を攻めて、西上野は武田の手中
       に。
 
【上杉輝虎が苦境に】
1567年 3月、輝虎、5度目の裏切りの唐沢山城を攻略する。
     4月、厩橋城代:北条高広が謀反し、北条に寝返るもすぐに輝虎に奪回される。
        輝虎は関東を転戦するも北条・武田連合に押されて領土は東上野のみになる。
 
1568年   輝虎は越後で謀反の本庄氏対応や越中戦線に謀殺さ関東は留守になり、北条の攻勢を許す。
    12月、信玄の駿河侵攻で甲相同盟破綻
 
【越相同盟成立】
1569年  3月、氏康は対武田戦略で越相同盟を輝虎に打診、成立し、上野東部の北条占領地はすべて上杉
       に帰属。
       北条高広も北条氏政が間を取り持ち、帰参を許される。
       
【信玄 北条領を縦断】
     10月、輝虎が越中の戦線に出兵の間隙に、信玄は関東の北条領を縦断する示威行軍、
             12月、三増峠で北条勢を撃破し早々に帰国。
      輝虎は越後に戻るも間に合わず、上野沼田まで来て越年。

1570年      氏康の七男:北条三郎が養子として上杉家に入り、上杉景虎を名乗る。
     12月、輝虎、新たに上杉謙信と改名。
 
【北条氏政、謙信から信玄に鞍替え】
1571年 10月、北条氏康が死去
1572年   1月、氏康の遺言により北条氏政は越相同盟を破棄し甲相同盟を結ぶ。
      11月、これに対し謙信、織田信長と同盟締結
 
1573年   4月、武田信玄、西上作戦の三河の陣中で死去
        謙信、氏政の上野侵攻に対し出陣、膳、女淵、山上、深沢、御覧田を次々と攻略する
       も、金山は落ちず。
 
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*上杉謙信の戦力・政治力を勘案したとき、憲政に頼られ関東に関わったが故のロスは計り知れないものがあります。
 信玄の背後の関東は敢えて放っといて、戦力を西へと向けていたなら、越中・加賀の穀倉地帯を早期に押さえ、朝倉・浅井を吸収して、一気に京に届いていたのではないか…。
 
【上杉謙信の斜陽】
1574年 10月、謙信、北条氏政が関宿を囲んだため関東に出兵するも、与力する兵力が集まらず、後方
       撹乱のみで帰国。
      毎年の様に相次ぐ実りの無い出陣に越後譜代の諸将の不満もつのり、上野での謙信の人望は
      著しく低下した。
 
1575年    北条氏政、関宿の簗田氏、下野の小山氏、常陸の結城氏などを服属させ、関東の上杉勢力を
      一掃する。
       武田勝頼、織田・徳川連合軍と長篠で戦い大敗する。
 
1577年 12月、上杉謙信、翌3月の関東大遠征を発令直後、春日山城で死去。
 
<この続きは後編で…>