三増峠の戦い
 
津久井から三増に移動して来ました。
 
 三増の地を訪ねるのは今回が初めてで、地形などをつぶさに見て廻って、それを基にしてめイッパイ妄想を膨らませて見ました。
 
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ワイドビュー三増 傾斜の緩やかな台地に畑が広がります
 

 

 三増峠の戦いの戦況を示す説の中には、予め北条勢が高所に布陣していた…というものも有ります。(海道龍一郎氏の『我、六道を懼れず』もそうでした)が、それでは志田峠から戻った山県隊が背後を衝く展開は無理ですし、三増の台地で対戦中に双方の陣形がグルリと180°回転しない限り、押された北条勢が半原方面に退いたのも地理上あり得ません。
 
 現地に来ると、そんな事がわかって来ますねw
北条勢の参集と布陣は間に合わず、先に武田勢が布陣したと見るのが妥当で、そう、古戦場跡にある陣立図の配置が本当に正しいんだと思います。
 
 また、戦場自体が峠に近い山間部で行われた“山岳戦”という解釈もありますが、信玄主導で戦ったとすれば、氏康が来ないうちの短時間での決戦こそ命題で、戦況が把握しにくく、混戦になって勝敗がつきにくい山岳戦になど敢えて持ち込む訳はありません。
 
 全体を俯瞰できる高地に陣取り、南に緩い傾斜の台地が広がり、その多くが畑地や原野であったであろう三増の地形は、騎馬を使った大規模な会戦には適地であり、またそれを得意とする信玄は間違いなく此処で戦う事を選んだだろうと思いました。
 
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古戦場碑の隣りにある陣立図  参戦メンバーや到着順など、いろいろ判って面白い
  
 地理の明るさと情報網の充実は北条に地の利があります。 しかし、不確定な相手の動きに合わせて後手で判断せねばならぬ事、そしてその指示も勢力が分散してる故伝達浸透に時間が掛かり過ぎ、情報戦は極めて不利になります。 
 また北条一門の氏照、氏邦、綱成や譜代衆はやる気満々でも、半分付き合いで来てる上野や下総の外様衆は正直戦国最強の武田勢などとは戦いたくないし、そうした勢力はおのずと動きが鈍くなります。
 
 情報の収集と戦術判断のタイミング、伝令の速さとそれを受けた対応…こうした一連のスピードの違いが如実に明暗を分けた戦いだったのではないでしょうか。
 
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北条側から見た武田の陣所  信玄は正面の山上に本陣を構え、山際に鶴翼の陣を敷いた
  
 
ドキュメント 三増峠の戦い』
 戦いの推移の説も、陣取りの説が違えば多様になるので、なんとなく辻褄が合わなってよく判りません。
そこで、今回は調べた事柄を基に、諸説を総合して一貫したドキュメント風に勝手に整理してみます。
尚、これは素人ゆえに出来る、何の証拠もない創作ですので悪しからずw

10月6日
 
  12:00   氏康の命を受けた北条氏照が三増に到着、一旦下ノ原付近に 布陣して後続の到
       着を待つ
 
   13:00   北条氏忠はじめ小机衆も到着、北条氏邦の鉢形衆、松山衆、河越衆も相模川東
        岸に迫る
 
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 氏康の命を受けた北条勢は急ぎ三増への行軍したが、大軍勢が殺到したため街道は混雑を極め、思いの外時間が掛かってしまう。
至近の橋本付近に居た氏照軍は武田勢に先着しますが、三増峠を抑えぬまま、武田勢が現れてしまいます。
 
  13:30   南の金田方面より武田軍の先鋒が早くも現れる。 後続の部 隊も縦陣で続々と
        街道を北上してくる
 
  14:00   人数の揃わない北条勢は、一旦半原に退いて偶発の戦闘を回避する
 
  15:00   武田勢は狙い通り三増峠南麓の高地にほぼ着陣。 同時に小幡重貞隊は津久
        井城の抑えと帰路確保の為に三増峠を越えて金原に進出し布陣する
 
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 ここで三増峠の高所を確保し布陣すれば良かったのですが、慌てた氏照はなんと友軍待ちに半原まで退いてしまう。
 逆に武田勢に三増峠と南麓の高地、さらにその先の帰路まで確保されてしまいます。
 
 
  16:00   北条勢の後続部隊が続々と到着して布陣、これに合わせ半原に退いた部隊も田
        代まで出て布陣し、双方の陣形がほぼ固まる
 
  16:30   武田勢左翼の山県昌景隊、真田信綱隊計5,000が続々と志田峠から山中に消え
        て行き、韮尾根で待機
 
  17:00    北条綱成率いる玉縄衆が到着、下ノ原に布陣する
 
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結果的に、布陣は氏康が意図したものと全く逆になってしまった。
こうなれば挟撃は出来ないし、引くも守るも攻めるも、信玄の思うがまま。
 
 
 この時点で氏康の描いた必勝パターンはすでに破綻してしまいます。
氏康が味方の後ろに駆け付けても後詰めの増員にしかならず、戦っても戦略的勝者の無い、人的消耗戦にしかならない布陣です。
(おそらく氏康は布陣情報を聞いて、馬脚を緩めた可能性が高いと思う)
さても出足の遅い事よのう、こうなれば信玄めが互いに怪我の無いうちに早々に引き払ってくれれば良いのだが…」 という心理か。
 
 一方、籠城に忍従し血気盛んな氏照、氏邦、綱成の心理は、不利な布陣でも「目の前の武田勢に一矢報いなければ武門の名折れ!」という気持ちが格段に強かったんでしょうね。
 最精鋭の山県・真田隊が消えた事(帰路の確保に移動した…と捉えたのかな)も、有利な条件と映ったかも知れません。
 
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山県・真田隊が越えて行った志田峠の古道
韮尾根で津久井城を牽制した両隊は翌日には三増に取って返し、北条勢の背後を急襲した。
  
 
10月7日
  7:00   先に仕掛けたのは信玄で、工藤昌豊率いる小荷駄隊が三増峠へ 向け撤収を開
       始する
 
  8:00   徐々に布陣を引きながら峠を越えて撤収するものと見た北条勢。
       最初に仕掛けるのは街道沿いに布陣布陣していた 綱成で、逃がしてなるものかと
       右翼の浅利信種隊に襲い掛かる。
        それを合図に北条氏邦隊が馬場信房隊に、北条氏照隊が武田勝頼隊に当たり、
       全面的な合戦が始まる
 
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目の前で背を向けた敵に、つい綱成が突っ掛けてしまう 大将不在のまま全体で戦闘に突入
 
   10:00      序盤は数と勢いに勝る北条勢が優位に戦いを進める。 
        中でも北条綱成の突破力は凄まじく、浅利隊を突破して小荷駄隊の後尾まで巻
        き込まれる。
         この中で浅利信種が鉄砲で狙撃され戦死、検使の曽根昌世が代わって指揮を執
        る
 
  11:00    武田勝頼、馬場信房の隊もジリジリ押され、信玄の本陣下まで後退して苦戦する
 
  12:00      北条氏照隊の左後方から山県昌景隊、真田信綱隊の計5,000が忽然と現れ、西
        から東へ猛然と北条勢の後ろ備えを切り裂いて行く
          後方の異変に気付いた北条勢が浮き足立った所へ、高所から信玄の旗本隊が
        突入して、攻守は完全に逆転する
 
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思いの外強力な北条勢の押しに、引きながら防戦する武田勢だが、
ガラ空きになった背後を山県隊が衝くと、北条勢はパニックに陥る
 
   14:00       陣形がズタズタになった北条勢は総崩れになり、次々と半原方面へ撤退を始
         める
 
  15:00     最後まで残って奮戦する北条氏照隊も命からがら、中津川を越えて南の山へ逃
         げ込み、戦闘はほぼ終了する
 
  17:00      北条氏康・氏政の接近を知った信玄は直ちに陣払いをし、三増峠を越えて撤収
         を開始する
          同じ頃、三増まであと数㌔の荻野まで迫っていた氏康の本隊も敗報を聞いて、
         小田原への撤収を始めた
 
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北条勢が崩れだすと大殺戮戦となり、一説では双方の戦死者は武田1,000名、北条3,000名という
誇張はあるにしても、三増の台地には無数の供養塔があるそうです。 
 
  21:00        夕刻に三増を発った武田勢は、津久井城を横目に見ながら長竹、三ヶ木と進
         み、反畑でやっと停止し戦勝の儀を行なう。 翌々日の9日に府中に帰着。

 
 
『会戦結果総括』
 この戦いの勝敗を判定すれば、戦闘自体は武田勢の圧勝です。
やはり信玄という百戦錬磨の名将が直接精兵を率いて、用兵したという事が一番で、開戦の段階では、勝つ環境を段取りしたのだから勝つのは当たり前で、どう戦わせてどう勝つか…に興味は移っていた事でしょう。
 
 本陣の真下で繰り広げられる、嫡子:勝頼と氏照の戦いなどはそんな観点で興味深く観ていたらしく、大石憲重のエピソードはそれを良く表しています。
 
 信玄の号令一下で全軍が思い通りに動く、子飼いの精兵ばかり2万の武田軍と、対する北条勢2万は支城の寄せ集めで、総大将不在で命令系統がハッキリしないまま綱成に引きずられての開戦ですから、必然の結果で、善戦した方といえますね。
 帰途についた氏康も「愚息めらが、高い授業料を払わせおった…」とボヤいてたかも。
 
 北条勢でキラリと光るのはやはり綱成で、往年を思わせる猛攻ぶりで、“腐っても鯛 老いても綱成”という姿を信玄の瞼にシッカリ焼付けた事でしょう。
この後の北条氏に、このタイプの武将はついに出て来ませんでしたけどね…。
 
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 では、信玄の示威行動とも言えるこの関東遠征全体の結果を総括すればどうなるでしょうか。
まず北条氏が受けた影響ですが、人的損害はあったものの、領地や城を失った訳ではなく、総合的には守り切った…と見る事も出来ます。
 そして氏康の若い息子達が信玄という稀代の名将とガチで戦ったという大きな経験値も残した事でしょう。
 
 しかし、そのせっかくの経験値は戦術や用兵の強化という方には向かず、多くが城塞の強化に向けられて、天正18年まで変わる事はありませんでした。
毎月の“小田原評定”では何を話し合っていたのでしょうね?
 
 一方、武田氏にとっての影響はどうだったのでしょうか。
三増に進軍した時点で、そのまま押し通ればなんとか無事に逃げ切れた状況で、敢えて戦って、重臣:浅利信種を失っています。
 後年、高坂昌信が“無用な戦いをなされた”と断じていますが、同じ状況なら一兵も損なわずに撤収して見せそうな“逃げ弾正”ならではのコメントです。
 
 しかし、三増で、特に北条氏照を二度も叩いておいた事で、北条氏の武田氏への対応はより一層慎重になります。 結果、駿河も楽に手に入れて、武田氏として晴れて西上戦を始められるに至ります。
先の先を見越して戦いを選んだ信玄が武将として何枚も上だったという事ですね。

 
 さて、テーマの主役:真田昌幸ですが、馬場隊の陣所でこの戦いをつぶさに見て、改めて信玄の凄さを実感していた事でしょう。
情報収集の重要性、そこから下す適格な判断、状況に応じた戦術の抽斗の多さ、相手に先んじるスピード…すべて後の昌幸の戦術の特徴と言えますから、この戦いで得た経験値はよほど大きかったのでしょう。
 
 幾つかの説に、三増峠の戦いの一番槍は昌幸…というのがありますが、隊の動きをつぶさに見て助言をし、大将の代理も求められる検使という役割を考えると、前線で先頭に立って戦うなど周囲に許される筈もなく、全くあり得ない話です。
 どんな戦いでも、大将が死ねば負けを意味し、自ら太刀を抜いたり槍を振るうなどと言うのはすべて後の創作ですからね。
 
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地元の農家が共同で建てたという立派な戦没者慰霊碑
 
 最後に、戦場跡碑から志田峠あたりを取材中には、何やら地元の方々の冷たい視線を感じました。
変なアングルで山や谷の写真を撮っていた怪しいオッサンは私です。
 決して産廃業者の用地探しの者ではありませんので、ご安心くださいw