武田信玄と北条氏康
 
 1569年(永禄12年)8月、武田信玄は2万の精兵を引連れて北条領に侵攻し、領内を縦断して北条の本拠“小田原城”を囲みます。
僅か4日の攻囲ののち帰路に付き、国境に近い“三増峠”で一戦交えて、10月9日に府中に帰着しています。
 
 真田昌幸(この時は武藤喜兵衛)は信玄の旗本として参戦し、馬場信房隊の検使の役目を果たしました。
昌幸22歳、二度目の大きな戦です。
今回はこの足跡を追ってみます。

*検使とは…各武将に信玄から派遣される旗本で、本隊と各部隊の繋ぎの役割とともに、武将 が死傷した場合はその代行をする

 
『関東侵攻の背景』
 これ以前の、武田の主要な敵は上杉謙信であり、北信濃を巡って5次にわたって戦いますが、これに専念する為、背後の北条、今川とは“甲相駿三国同盟”を結び、互いに拡張の方向を棲み分けていました。
 
 しかし、上杉との戦いも1964年の“第五次川中島”でほぼ国境が定まり、次の主敵は義元亡き後の今川領を蚕食して勢力を東に拡げている徳川家康と背後で天下取りを着々と進める織田信長になります。
 
 今川家の衰退の早さから、放置できないと見た信玄は駿河に侵攻を決めますが、北条氏康もまた今川氏との縁戚が深い事から信玄に対抗して駿河に出陣し、1569年1月には興津で信玄と対陣するに至って、信玄は退却を余儀なくされ、同盟は破綻してしまいます。
 
 深謀遠慮もなく、西に出て来て脚を引っ張る氏康に対し、一度叩いておく必要を感じた信玄は、同年8月には“関東遠征”を実行します
 

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互いに攻める方向を棲み分けていたが、信玄の駿河進攻を機に、氏康は今川救済に進攻し、興津で対陣する
更に、徳川と組んで挟み討ちにする動きを見せたので、信玄は甲斐への退却を余儀なくされた
 
 
 
『遠征経路と目的』
 西上志向の信玄にとって北条氏は攻め滅ぼして領地を奪う対象ではなく、背後の関東が北条の元に安定して居れば何の支障も無いので、『邪魔すると痛い眼に遭うぞ!』という事を思い知らせれば良い“示威行動”というのが本来の目的であったと思われます。
 
 一方の氏康には西上の意志はなく、関東での自治権確立が最終目標でしたから、武田の邪魔というより、妻の実家、娘の嫁ぎ先である親族:今川家の救援という純粋な行動で、戦国武将としては今川の末路は見えてたでしょうから、苦悩しながらも、義を立てた形で信玄と対決せねばならなかった背景がありました。
 
 24日に府中を発した武田軍2万は、甲州街道~佐久街道を経て、9月初旬には碓氷峠から西上野に入り、安中経由で侵攻します。
この報に接した氏康は信玄の本意を読んだ上で、武田軍との野外決戦を厳に戒め、徹底した籠城作戦を各支城に指示します。
 
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最初に囲まれる鉢形城
天然の要害に建つ城に籠もられては攻め手もなく、すぐに南下する
  
 私は、信玄と謙信の関係同様、信玄と氏康という両雄には互いをリスペクトした部分が大きくあり、この一連の行動を“茶番”とまでは言わないまでも、両者は阿吽の呼吸で動いていたフシを感じています。
信玄:「氏康よ大局を見ろよ、信長に天下を取らせていいんか? 邪魔せん様に部下をちゃんと管理してくれよ!」
康:「信玄、東国経営の大変さも少しは理解しろ、正面切っては戦わんから無茶はすんなよ!」
 といった感じでw
 
 かくして無人の野を行くが如き武田軍は10日には北武蔵・上野方面の支配拠点:鉢形城を囲みます。
しかし、父:氏康の指示を守る城将:北条氏邦は討って出る気配を見せぬ為、すぐに囲みを解いて南下を始めます。

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唯一攻撃された滝山城
より堅固な主郭部に拠って守る氏照の防戦に、攻めきれず、一日で囲みを解いた
  
 
 武蔵の主要な支城の松山、河越などを威嚇しながら、27日には次男:氏照の滝山城を囲み、今度は少し攻撃を仕掛けて見ます。
滝山城は甲州からの出口:八王子にあり、少し叩いておく必要を感じたのでしょうか、攻め込んでプレッシャーを与えますが、氏照も防戦に努めて守り切ります。
 
『小僧め、なかなかやりおるな、今回はこの位にしといたろか』と、一夜明けると武田軍は忽然と姿を消し、小田原めざして南下します。
滝山城からは部隊を二手に分け、本隊は橋本を通り座間~厚木と南下します。
 一方の別働隊は大きく東に迂回して、世田谷、小机、玉縄などを威嚇しながら行軍した様で、平塚で合流します。
 
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信玄の行軍ルートと北条勢の反撃の動き
両軍は三増峠南の台地で激突するが、北条勢は信玄の早い動きに追い付けなかった
 
 
 
『小田原城包囲』
 30日に酒匂川まで辿り着いた信玄は、翌10月1日には北条の本拠小田原城を包囲します。
ここも籠城の構えに変わりなく、籠城兵は攻め手と同じ2万、しかも氏康自身の指揮となれば、そう攻め口など有る筈もありません。
長居して、下手に大きな損害でも出せば帰国も覚束なくなるので『頃合い良し!』と断じた信玄は、攻囲僅か4日で甲州帰還を決めます。
 
 さて、ここからの退き陣がとても難しく、北条氏がやられっ放しで無事に見逃してくれる訳もなく、隙を見つけて襲おうとするのは必然です。
、それをどう交わして、あるいは撃退して無事に帰還するか…。ここから武田信玄の信玄たる真価が発揮されます。
 
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北条の本拠地:小田原城  まだ惣構えは無いものの、兵も多く容易に落ちる城ではなかった
 
  
『三増峠への道』
 10月5日朝、小田原城の包囲を解いた武田軍は城下に放火し、追撃の手を妨害しながら一気に東へ向かいます。
おそらく追手の脚を鈍らせる為に橋や川船など、破壊の限りを尽くして行った事でしょう。
 
 道中では『これから鶴岡八幡宮に参詣する』というガセ情報を出しながら、その日のうちに平塚まで行軍し、突如北に進路を変え、金田・妻田で野営します。
  2万の兵が30km近く移動した事になり、秀吉の“中国大返し”に近いスピードです。スピードこそは信玄が長年の戦いから得たノウハウであり、必勝の方程式でもあります。
 
 翌朝、厚木の田村まで進んだ信玄は、一旦陣を張って軍議を開き、各地の情報を整理します。小田原からの追手の動き、滝山の氏照はじめ行く手の北条勢の動き、津久井の動向…。
 それらから、氏照、氏邦らが決戦すべく兵力を集結しつつある事と、想定される場所が三増峠の手前の台地が広がる辺りと踏んだ信玄は、小田原の氏康の動きが意外に遅い事から短期決戦を決意し、一気に三増まで軍を進めます。

  おそらく遠征目的の達成不足と、今後の北条軍を率いるであろう氏照、氏邦兄弟の力量を見極めたかったのでしょうね。
 
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決戦の想定地は…   三増の台地!
  
 
 一方、一発殴り返さないと面目が立たない氏康は、信玄が平塚から北上した情報を得ると、帰国の意図とルートを確信し、直ちに各支城に伝令を出します。
その内容はおそらく
『氏照、氏邦ほか武蔵・上野衆は三増峠の南に布陣して信玄の帰国を妨げよ、我と氏政も小田原より出撃して挟み討ちで殲滅しちゃる』
といった内容ではなかったか…。
 
 
つづく
 
次回は、その三増峠の合戦の一部始終に迫ります。