関東の城探訪 神奈川県 津久井城 登城日 2014.08.24

所在地 神奈川県相模原市緑区根小屋
城郭構造 梯郭式山城
通称 筑井城
築城年 鎌倉時代
築城主 筑井氏
主な改修者 津久井三郎
主な城主 筑井(津久井)氏、後北条氏
廃城年 天正18年(1590年)
遺構 土塁、空堀、石垣
文化財指定 なし
城郭構造 梯郭式山城
通称 筑井城
築城年 鎌倉時代
築城主 筑井氏
主な改修者 津久井三郎
主な城主 筑井(津久井)氏、後北条氏
廃城年 天正18年(1590年)
遺構 土塁、空堀、石垣
文化財指定 なし
次は滝山城にほど近い甲斐との国境にある“津久井城”です。
戦国期以前、関東から甲斐に抜けるには八王子から小仏峠を越えるルート(現R20)はまだ無く、橋本から相模川沿いに遡り、上野原に至るルート(現R413)が一般的でした。
その道沿いの関東平野への出口に有るのが津久井城で、特に後北条氏の支配期には重要な拠点として機能しています。

本城曲輪から見る橋本市街 丹沢山系はここで終わり、関東平野が広がる
津久井城が初めて築かれたのは鎌倉時代で、幕府の有力御家人:三浦氏の一族、築井氏がその領地に居館と詰め城を置いたのが始まりと言われます。
当初は戦乱への備えではなく、この地域は古来、森林資源の宝庫で、伐り出した木材は相模川を使って運び出され、鎌倉での作事に重用された様で、そうした木材産業の監督拠点だったのでしょうね。
城山の詰め城も簡素なものだった事でしょう。
城山の詰め城も簡素なものだった事でしょう。

津久井城縄張り 大規模な根小屋が一体になった山城です
戦国も中盤になり、北条氏が関東を制圧し始めると、津久井城の位置付けは変わって行きます。
西に国境を接するのは甲斐の武田信虎で、関東管領:山内上杉氏の要請を受けての越境侵入、小競り合いが起こる様になると北条氏は津久井城に大改修を掛け、城将の内藤氏には重臣の待遇を与えて強固な防衛拠点にします。
西に国境を接するのは甲斐の武田信虎で、関東管領:山内上杉氏の要請を受けての越境侵入、小競り合いが起こる様になると北条氏は津久井城に大改修を掛け、城将の内藤氏には重臣の待遇を与えて強固な防衛拠点にします。
“奥三保”と呼ばれるこの地域で、北条氏綱と武田信虎は何度も戦った様で、その都度地の土豪を味方に引き込む調略合戦を繰り広げますが、裏では土豪間の連携が強く、最終的な結果としては北条・武田両氏の緩衝地帯的な白黒つかないカフェオーレ地域でした。
氏康・信玄の時代になると、甲相駿三国同盟が結ばれて棲み分けがなされ平穏になりますが、今川氏の衰退を受けて同盟は破綻し、1569年(永禄12年)には津久井城の眼と鼻の先の三増峠で両軍が激突します。

城山から三増方面を見る
一番左の谷間が三増峠で、その向こうが戦場だったが、津久井衆は参戦しなかった。 直距離3km
この“三増峠の戦い”でも津久井城は信玄の甲斐帰還を阻止し、或いは背後から襲える絶好な位置にありましたが、北条氏(主に氏照)は敢えてこの城を活用する戦略を採っていません。
武田氏もこの城の抑えに向かった小幡重貞に地の豪族の“上野原衆”を付けており、津久井城主:内藤景豊に沈黙を守らせる事に成功しています。
一応北条領とは言え、この地域の難しさを物語っていますね。
一応北条領とは言え、この地域の難しさを物語っていますね。
1582年(天正10年)武田氏が滅び、奥三保に大きな影響力を持っていた小山田氏が滅亡すると、地の豪族達も北条氏一本に臣従し、北条氏照の配下(与力?)になります。
1590年(天正18年)の小田原征伐では内藤景豊は小田原籠城に加わっており、津久井城は城代はじめ500程の兵で守っていましたが、平岩親吉、本多忠勝らの徳川勢12,000に攻められ、衆寡敵せず開城降伏しました。
その後は徳川氏の直轄領となった為、城は廃城となりました。
その後は徳川氏の直轄領となった為、城は廃城となりました。
『津久井城を歩く』
八王子からR16で片倉を越え、橋本の市街でR413に右折して市街地を抜けると、前方にいかにもそれらしい山塊が見えて来ます。
津久井城のある“城山”ですが、比高差が200m以上ある独立峰の山城はさすがに圧巻ですね。
八王子からR16で片倉を越え、橋本の市街でR413に右折して市街地を抜けると、前方にいかにもそれらしい山塊が見えて来ます。
津久井城のある“城山”ですが、比高差が200m以上ある独立峰の山城はさすがに圧巻ですね。

南麓の御殿跡にあるパークセンター 居心地の良い施設です
麓の津久井湖畔をグルリと西に回り込み、南麓に掛かった辺りの緩傾斜の土地が“根小屋”で、城主と家臣団の居館のあったエリアです。
ここに城の資料を展示してある“パークセンター”があり、広い駐車場もあるので、そこにクルマを停めてまずお勉強です。
ここに城の資料を展示してある“パークセンター”があり、広い駐車場もあるので、そこにクルマを停めてまずお勉強です。
館内は入城無料で、敷居が低い、誰でも気軽に入りやすい雰囲気作りがされてる事を強く感じます。
この“津久井城公園”では、城址をベースにしながらも、大人の軽登山や子供には植物や昆虫などに親しむ、“自然公園”としての運営がなされていて、城オタよりもそっちの利用者が殆どの様で、いろんな世代の人達で賑わっています。
城址の活性利用に頭を悩ませている自治体にとってはとても参考になる好事例だと思います。
この“津久井城公園”では、城址をベースにしながらも、大人の軽登山や子供には植物や昆虫などに親しむ、“自然公園”としての運営がなされていて、城オタよりもそっちの利用者が殆どの様で、いろんな世代の人達で賑わっています。
城址の活性利用に頭を悩ませている自治体にとってはとても参考になる好事例だと思います。
…という事で、城に関する資料や展示は多くは無いのですが、戦国期のジオラマがあるので、歴史上出てくる地名と位置関係がとても良く判ります。

パークセンターにあるジオラマ
三増峠は右側にあり、手前の台地に小幡重貞が布陣して川を挟んで対峙した。 韮尾根は右手前の奥
今回訪れた目的のメインは“三増峠の戦い”との関連だったので、多くの新たな発見もありました。
その一つが“韮尾根”という地名です。
その一つが“韮尾根”という地名です。
信玄は戦に先立ち、山県・真田の二隊を志田峠を越えた“韮尾根”に待機させ、戦闘後半にこの二隊が北条の背後を衝いて、勝利を決定的にした… と言われています。
地名のイメージから、“峠を越えた山中に隠し、頃合いを見て投入した”的な展開を勝手に想像していたのですが、実際には韮尾根とは峠を降り切った、平地の地名でした。
つまり、小幡重貞が布陣した金原台地の奥あたりで、津久井城からも視認できる場所です。
地名のイメージから、“峠を越えた山中に隠し、頃合いを見て投入した”的な展開を勝手に想像していたのですが、実際には韮尾根とは峠を降り切った、平地の地名でした。
つまり、小幡重貞が布陣した金原台地の奥あたりで、津久井城からも視認できる場所です。
小幡重貞は1,200の兵で津久井城の抑えに向かいますが、城主:内藤景豊との折衝(津久井衆はこたびの戦に手を出すな…的なもの)が上手く行かず、信玄は急遽後詰めに山県・真田隊を派遣し、武田勢の中でも特に勇猛で知られる、山県・真田の旗を見せる事で、折衝は成立した…といった裏での画策が見えて(妄想)来たりします。

山頂の本曲輪跡 遺構を損なう事なく適度な整備がされている
最後に城の印象をほんの少し。
特に驚く様な遺構は無いのですが、前述の様に山全体に遊歩道が整備されていて、割と手軽に城山めぐりが出来ます。
パークセンターの職員さんもほんとに親切で気持ちイイし、“行って良かった城”の上位にランクされるお奨めの城址です。
特に驚く様な遺構は無いのですが、前述の様に山全体に遊歩道が整備されていて、割と手軽に城山めぐりが出来ます。
パークセンターの職員さんもほんとに親切で気持ちイイし、“行って良かった城”の上位にランクされるお奨めの城址です。

通常の歩道に加え、中腹まで整備されたバリアフリーの散策路
車椅子でも城めぐりと眺望を楽しめる