真田昌幸の足跡を巡る~川中島 ②
 
 
『長国寺』
 折角松代に来たのだから、最後に長国寺でお参りして帰ります。
 
 長国寺は真田郷を訪れた際に寄った長谷寺と同じく、真田家の菩提寺で、代々の当主が眠っています。
真田家が上田から松代に移封になった際に、信之が長谷寺の住職を呼んで新たに開山したそうです。
 
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長国寺山門  意外と質素です
 
 松代城の東500mほどの所に寺はあり、周囲は寺院や神社が集まった場所ですが、屋根に六連銭が輝く、ひときわ大きな伽藍が見えるのですぐに判ります。
 
 門前の専用駐車場にクルマを停めて境内に入って行きます。  
豪壮な門や高い塀などは無く、かなりオープンで明るい感じの境内ですね。
 
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長国寺本堂  鯱の角度が凄い!
 
 真田家に関する見学は完全管理されていて、真田家の墓所、霊廟には柵があり、予め庫裏で受付をして、見学料\300を払ってからガイドさん同伴で回ります。
 
 まず案内されたのは藩祖:信之公の霊屋(霊廟)で、思いもよらず大きく壮麗な霊屋に眼を奪われます。
 大名の霊屋としては伊達政宗の物に匹敵する豪華さだそうで、日光の陽明門を想わす彫り物の一部は名人:左甚五郎作のものもあります。
 
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超豪華な信之公の霊屋 
 
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 鶴の彫り物は左甚五郎の作だそうです 
 
 初期の松代藩は10万石にしてあの城ですから、資金は潤沢だった様で、隣りには少し質素ながら、4代信弘の霊屋もあります。
 他の藩主の霊屋は、火事・地震・水害対策による財政窮乏で建てられませんでした。
 
 信之公の霊屋内には信之公と正室:小松殿の位牌が安置されてるそうで、国の重要文化財に指定されています。
  
 次は霊屋の裏手の真田家墓所に入ります。 
こちらも鉄柵の鍵を開けて入って行きます。
このシステム、詳しい案内をサシで聴けて、悪戯の損壊も防げてイイですね。
(五円玉六枚は置いて来れないが…)
 
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信之公の墓石
真田家の嫡男の戒名には必ず“一”が付くのだそうです。これは知らなかった。
 
 こちらも歴代藩主と子息(夭折含む)の墓石がズラリと並び、清掃も行き届いて壮観です。
墓所の説明も藩祖:信之公中心で進みます。 昌幸の墓石は? と尋ねると、やや無愛想に供養塔だけあります…との事。 
『徳川に逆らった者の墓など無理でしょう』という事の様で、では長谷寺の墓は?とツッコみたくなりましたが、やめましたw
また、正室の墓は無い様で、小松姫は?と尋ねると、『それはあっち(本多家?)、他家から来た人だし…』というにべもない返事。
 
 間を置いて、幸貫公に話を振ると、『松平定信の子で、将軍吉宗のひ孫で…』と上機嫌です。そっちはイイんかいw  
松代藩では小松姫は評判悪かったのが判りましたw
 
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供養塔① 幸隆、信綱、昌幸
 
 供養塔は後の時代に建てられた様で、真田幸隆・信綱・昌幸の連名になっています。
それとは別に、真田幸村・大助という供養塔もあります。
 どうも松代の人にとっては昌幸は信之の親…という扱いの様で、信繁も含め我儘で信之に大迷惑をかけた不肖の親と弟というのが真意の様です。
 
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供養塔② 幸村、大助  あれっ?幸村なんだ
  
 ともかく、真田家が今に残るのは、信之の功績がダントツ一番…という点では私も異存ありません。
最後は再来年の『真田丸』の話題になりましたが、幸村イチバン!と思ってる人達に信之の凄さが認識される契機になるとイイですねw
 
  軽くお参りしてくるつもりが、思わず長居して、いろんな話が聴けて、大収穫を土産に帰ります。
 真田一族といえば親子の結束が固い、一枚岩の組織で、だから強いんだ…というイメージがありますが、真田家もいろんな氏族を糾合して大きくなった家ですから、家臣団には自ずと派閥が出来ますよね。
古くから信之と行動を共にした沼田衆にとっては、真田家は信之から始まってて当然です。
 
 信繁が事もあろうに大坂から誘いをかけ、それに300名もの家臣が駆け付けた…というのも納得が行きます。
 
 幸隆を崇める真田郷、信之ありきの松代、幸村(信繁)イチバンの大阪と上田…。昌幸は何処が大切に思ってくれるのかな?  
ホントは上田であるべきだと思うのですが。九度山に期待するかw